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追記 6: バクラ・リンポチェについて

バクラ・リンポチェについて

11月11日からの1週間は、インドでの教育の日のお祝いと重ねて、K.G. Bakula Rinpochey Educational Campaignが毎年ラダックでは祝われ、様々な教育に向けた意識向上の催しが開催されます。ラダック中に、このポスターが貼られるので、お気づきの方も多いと思います。レーの空港の名前も、KG Bakula Airportというのです。ラダックにとって、とても重要だと思われる、このバクラ・リンポチェとは誰のことなのでしょう?そこで、Reach LadakhStatetimesの記事を検索し、以下の記事を見つけましたので、抄訳をしてみました。また、Youtubeのビデオや写真のリンクも張りました。

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Reach Ladakh Sept. 8, 2010    http://www.reachladakh.com/archive_details.php?pID=477からの抄訳

20世バクラ・リンポチェが彼の僧院に到着

2010年9月8日 Dr.Sonam Wangchuk執筆

86歳で遷化されたバクラ・リンポチェ尊師は、偉大な資質と類まれな才能を持つ突出したラマでした。1917年5月14日に、ラダックのマトの由緒ある家庭に生まれ、13世ダライ・ラマ法王により、ブッダ釈迦牟尼の16人の阿羅漢の一人であるバクラの転生として認められました。そして、ラサにあるデプン大僧院で教育を受けました。

クショック・バクラは、最も尊敬されるラダックのラマ、インドの政治家、国際的な外交官として、代えがたい貢献をし、また、多くの人びとの幸福や、インド憲法のカーストや民族の規定に関する少数民族の権利などのために、自身の命を捧げました。教育分野での彼の支持や熱意と決心は、ジャンム・カシミール州という政治的に不安定な環境の中で、自分たちのヒマラヤの伝統文化を維持し、権利を守るためのラダックの人びとの戦いの中で、彼に重要な役割を果たさせました。彼は、学者であり、且つ僧侶であり、且つ政治家であるという、極めて特異な位置を保ち、伝統と近代教育が共存する文化を発展させるための、ラダックの人びとの指導者でした。これらの業績により、彼が「ラダック近代化の設計者」と讃えられるのは、極めて当然のことと言えます。

多くの成果をあげた施政者かつ国会議員として、インド政府の中でも幾つかの重要な役職を勤めました。それには、National Minorities Commission(少数民族政策に関わる委員会)のメンバーであったことも含まれています。1986年には、インド国大統領が彼の国家への重要な貢献を顕彰し、国家で二番目に高位の勲章である「Padma Bushan」を授けました。1990年には、彼は駐モンゴリア・インド国大使となり、任期は、大使としてだけでなくモンゴル人の精神的指導者として、10年にも及びました。2004年11月4日、リンポチェはニューデリーで亡くなりました。彼の死は、国にとっても、仏教界にとっても大きな損失でした。当時ラダックの人びとにとって、バクラ・リンポチェのいないラダックは、想像もできないことでした。

生前の19世バクラ・リンポチェ

http://www.youtube.com/watch?v=jnZa3DO_sRc&feature=share

 

しかし、喜ばしいことに、バクラ・リンポチェの転生者として、2歳になるスタンジン・ナワン・ジグメ・ワンチュックが、数人の少年の中から、14世ダライ・ラマ法王により、認められました。20世バクラ・リンポチェは、2006年1月23日ラダック、ヌブラ、キャガール村に、ドルジェ・ツェリンとソナム・ドルカーの子どもとして、幾つかの宗教的な徴を持って誕生しました。

最初、彼の幼い年齢のこともあり、彼の僧院であるペトゥップ僧院ではなく、サムスタリン・ゴンパの僧院環境で彼を育てることになりましたが、彼の僧院の僧侶たちが一日も早く彼にリンポチェの座に就いて欲しいと望んだため、彼をレーに連れてくることとなりました。そして、ガンデン・トゥリ・リンポチェの助言により、2010年8月6日、長蛇の車の列を従え、レーにやって来ました。ラダック仏教徒協会の会長、全ラダックゴンパ協会代表、モンゴルの代表、ペトゥップ僧院の僧侶を始め、村々からも多くの参会者達が、レーに集まりました。ところが、前夜に起こった集中豪雨と洪水という全く予期せぬ不幸な天災により、バクラ・リンポチェの到着を祝う様々な儀式や催しは、一切が泥水に流されてしまったのです。迎える人びとも大変でした。多くの人が病院に収容されて闘病し、また多くの人が肉親や友人などを失って悲しんでいるところに、リンポチェ到着の喜びを優先して表せられるかどうか。

時間をかけて計画された即位の大儀式は、簡単な宗教儀礼に縮小され、2010年8月12日に執り行われ、正式に、リンポチェはペトゥップ僧院のバクラの位に着きました。その儀式には、ガンデン・トゥリパ・リゾン・ラス・リンポチェ尊師の臨席の下、幾人かのリンポチェ尊師達、政府の高官達、政治家やNGOやツォグスパの代表たち、モンゴル、中国、日本からの客人たち、多くの僧院からの僧侶や一般人も多く参加しました。

20世バクラ・リンポチェ 2012年

http://www.youtube.com/watch?v=4g6K70l0_Ew

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これが20世バクラ・リンポチェの最新情報です。

State Times Nov. 8th, 2012, http://www.statetimes.in/news/bakula-rinpoche-leaves-higher-spiritual-studies/からの抄訳

Tsewang Rigzin氏執筆

今年やっと7歳になるクショック・バクラ・リンポチェ(スタンジン・ナワン・ジグメワンチュック)が、水曜日にさらなる学習のため、レーを離れ、ニューデリーに向かった。デリーからリンポチェはカルナ-タカにあるデプン・ロセリン僧院にむかい、そこで何年にも渡って仏教哲学と大乗仏教についての学習をすることになる。

20世バクラ・リンポチェはヌブラ峡谷のキャガール村で生まれ、2010年8月にスピトゥク僧院に入るまでは、サムスタリン・ゴンパで僧院生活への準備を始めた。彼の言語と一般学習の教育は、Central Institute of Buddhists Studies(CIBS)のゲシェ コンチョック・ワンドュ教授とHimalayan Cultural Heritage Foundation(HCHF)のソナム・ワンチュック博士と多くのチューター達が担当した。

彼の出発に際し、ラダック仏教徒協会の会長、トゥンドゥップ・ツェワン師やスピトゥク、サンカー、サブ、ストックの各僧院からの僧たちや、LAHDCのカウンセラーを含む様々な有力者たちが見送りに空港を訪れた。また、リンポチェのデリー到着後、11日に、デリーのラダック仏教ビハラにて歓迎のレセプションが開かれる予定。


追記 5: ラダックからの二つのニュース

ラダックから、また少し心配なニュースが伝えられています。

State Times Online版の12月6日http://www.statetimes.in/news/leh-shuts-down-against-police-atrocities-in-zanaskar/によると、12月5日、レー市内ではラダック仏教徒協会(LBA)の呼びかけにより、千人を超す人びとが、11月26日にザンスカールのサニ村で起きた、警官による、女性を含む30名の住民への暴行事件に抗議し、ザンスカール在住の仏教徒への連帯を示すための平和行進を行いました。行進は、チョカン・ビハラからポログランドまで行われ、商店街は午前中はすべて閉店となったということです。

この事件の発端は、ザンスカール、サニ村に昔からある、グル リンポチェ パドマサンバヴァが修行をしたと伝えられ、聖地として仏教徒が大切にしている池で、パドゥムの町に駐屯するジャンム・カシミール州の警官たちが釣りをしたことです。これに抗議した村人たちが釣りを継続する警官達と小競り合いになり、女性を含む村人たちが負傷したということです。

State Timesによると、LBAの副会長を勤めるツェワン・ティンレス師は、この平和行進は、現地の行政側による、民族主義的な差別や偏見や無視を被っているザンスカールの仏教徒住民に対する支援と連帯を表明するためのものであると述べ、また、警官による住民への正当な理由なき暴力と彼らの高圧的な態度を非難し、責任者の処分、仏教徒保護のためのインド国軍のザンスカール駐留などを要求しているということです。

事件の起きたサニ村は、この10月にイスラム教への改宗事件が起きたパドゥムの町に近く、今回の事件も、この間のイスラム系と仏教系ラダッキの緊張が原因なのです。

 

次は、ラダック文化に関するニュースです。

ラダックの僧院などで行われている仏教儀礼での読経が、国連・UNESCOの「無形文化遺産」のリストに加えられることになりました。以下、ノミネーション ファイルのサマリー部分の抄訳です。http://www.unesco.org/culture/ich/index.php?lg=en&pg=00011&RL=00839 

「古くから伝わる神聖な仏教経典の読経・声明は、ヒマラヤ地方ラダックに広く点在する僧院に住む僧侶たちにより、仏教各学派の伝統に従って、日常的に執り行われています。また、仏教上の重要な催しや、個人の人生の通過儀礼や、農作業上の大切な日にも、それが執り行われます。それにより、悪霊の怒りを鎮め、様々なブッダ、菩薩、神々やリンポチェの祝福を人びとに授け、人びとの精神上・道徳上の安泰を実現するのです。読経は、世界の平和と繁栄も同時に願って行われます。

読経・声明は、高度に構成された音楽的なドラマでもあります。室内で行われることもあれば、僧院の中庭や村の個人の住宅で舞踏を伴って行われることもあります。読経の間、僧侶は特別な衣装をまとい、手はジェスチャーにより聖なるブッダを表します。楽器では、鈴や太鼓、シンバルとラッパが用いられ、リズムを奏でます。読経は、瞑想を深め、悟りを開き、現世の苦から自由になるための手段なのです。」

このサイトにあるVideoは是非ご覧になると良いと思います。ヘミスやティクセ、スピトゥク、フィヤンなどの僧院での読経の様子が記録されています。また、今回の登録では、ラダックを含め27件がリストに加えられましたが、和歌山県那智勝浦町の「那智の田楽」も同時に登録されました。


追記4:ラダックでの10月の仏教関係出来事

8月にはダライ・ラマ法王がラダックを訪問されましたが、この10月はラダック仏教界、特にドゥルクパ関係で、幾つかの出来事がありました。ReachLadakh紙の記事から抄訳します。

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まず、10月1日に、ティクセ僧院の長老、ティクセ・ケンポ・リンポチェ(ナワン・チャムバ・スタンジン師)の長寿をお祝いする祈祷がチュショット・シャムマ・ゴンパで、チュショット・シャムマの人々によって執り行われました。リンポチェは、ツォンカパの現世弟子、黄帽派の創始者、ジャンセム・シェラブ・ザンポの9世Reincarnateで、1943年5月20日に生誕し、現在70歳です。

人びとは、ステンジュクとマンダラを奉納し、リンポチェの祝福を受けました。

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10月5日には、スタクナリンポチェのReincarnateがヒマーチャルで見つかった話です。スタクナリンポチェ.jpg

2010年1月に91歳で亡くなったスキャブジェ・スタクナ・リンポチェのReincarnateは、ラーホル、キーロン近くのガルシャ村で生まれた18ヶ月の幼児で、彼が1歳になる頃に、夢告によって、それを知ったギャ ルワン・ドゥルクパ・リンポチェによって見つけられということです。この9月で18ヶ月になり、ガルシャを訪れたギャルワン・ドゥルクパ・リンポチェにより、スキャブジェ・スタクナ・リンポチェのReincarnateとしての剃髪の儀礼が執り行われました。18ヶ月の幼児ですが、儀式の際には立派な態度だったそうです。

故スタクナリンポチェは、1920年にレーのマルツェラン村に生まれ、3歳の時に15世カルマパ ラマ、スキャブゴン・スタクツァン・リンポチェがスタクナ・トゥルカのReincarnate として認められ、1924年5歳の時にスタクナ僧院のスタクナリンポチェとして即位しました。7歳になると、ヘミス僧院のスキャブゴン・スタンツァン・リンポチェの指導のもと、リンポチェとしての修行を始めました。故スタクナリンポチェは、1967年のレーのチョカン・ビハラの建立に尽力し、1977年から1986年の間ラダック仏教徒協会の会長を勤め、ラダック仏教界の指導者の一人として、インドの憲法(Constitution (Jammu and Kashmir) Scheduled Tribes Order)によるラダックの指定部族8グループ指定や、ラダック自治山岳開発カウンセルの設置、ラダックのジャンム・カシミール州からの離脱運動など、ラダックの未来のために力を注ぎました。

スタクナリンポチェは、ドゥルクパ派のスタクナ僧院の管長で、スタクナ僧院は、ムッド、カルや、ザンスカールのスタクリモ、バルダン、サニの諸僧院など幾つかの支僧院を統括しています。

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10月17日に、ギャルワン・ドゥルクチェン・リンポチェがレーを訪れたニュースです。

ギャルワンドゥルクパ.jpg

12世ギャルワン・ドゥルクパ・ジクメ・ペマ・ワンチェン・リンポチェが早朝にレーを訪れ、早速スキャブジェ・チョエゴン・リンポチェがドルマ祈祷会を執り行っているチョカン・ビハラに向かいました。チョカン・ビハラでは、ラダック仏教徒協会とラダック僧院協会がギャルワン・ドゥルクパ・リンポチェの長寿とドルマ・ツォスパのためにマンダラ供養をし、また、ギャルワン・ドゥルクパ・リンポチェとスキャブジェ・チョエゴン・リンポチェのためにマンダラ供養をしました。ギャルワン・ドゥルクパ・リンポチェはその後ヘミス僧院に向かいました。ドルマ祈祷会はこれから3日間にわたって執り行われるということです。ギャルワン・ドゥルクパ・リンポチェの来訪の主目的は、10月26日から11月2日までヘミス僧院で開催される第4回ドゥルクパ年次総会(ADC)に参加するためです。

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第4回ドゥルクパ年次総会(ADC)が10月26日から11月2日までヘミス僧院で開催されます。

ヘミス僧院チャクゾットのナワン・オスタル師とADCの国際コオーディネータのパドマ・ルンドップ師は、準備を着々と進めており、6日には、ラダック自治高地開発カウンセルのCEC、リグジン・スパルバー氏も僧院を視察し、環境整備や飲料水・医療設備の整備などを指示しました。State TimesPRNewswireによると、詳細は、以下のとおり。

主催者:ドゥルクパ派仏教の世界的指導者である12世ギャルワン・ドゥルクパ・ジクメ・ペマ・ワンチェン・リンポチェと、運営担当責任者のタクセー・リンポチェ

参加者:50名を越えるインド、ネパール、ブータン、ヨーロッパ、北米、アジアのドゥルクパ派指導者たちと、全世界で10万を超える信者の代表者達。ブータン政府の代表、家庭大臣のリョンポ・ミンジュー・ドルジ氏。インド地方政府の代表として、ラダック自治高地開発カウンセルのCEC、リグジン・スパルバー氏と、地区コミッショナー、ツェリン・アンチェック氏、観光担当カウンセラー、ギュルメ・ドルジェ氏など。

開催地:へミス僧院

開催目的:ギャルワン・ドゥルクパ師は、「ADCは様々な世界からの参加者が一ヶ所に集まり、互いに刺激し合いながら、共通の目標に向かってともに活動する場所です。今こそ、違った背景を持つ我々が、その違いを認識しながらも、すべての人々の利益となるような共通の課題に立ち向かう時なのです。」と説明している。

ハイライト:(1)平和と幸福のための10万燈会

(2)3つの聖遺物の一般公開:1)“プルバ”と呼ばれる300年前にドゥルクパのヨギが作った守り刀。ヒマラヤで、雪崩や幾多の災厄を防いだと言われている。2)8世紀のインドの聖人、チベットの密教を伝えたグル・パドマサンバヴァの像。“金剛薩埵”として知られる穢れを浄める力があると言われている。3)12世紀のチベットで最も知られたヨギ、ミラレパの実の妹の青銅製の像。像の頭部に髪の毛が生え、定期的に生え変わると言われている。願いを適える力があると言われている。

(3)10月29日にナン村、トゥンキー・ラトで、Live to Loveの100万本植樹祭。2010年にラダックで初めて開催し、樹木資源が払底しているヒマラヤ高地での植樹活動としてギネスに認定されたが、今年は10万本を目標に、ギネスの記録更新を狙う。29日の結果は、9814人が参加し、53分で99013本を植樹し、ギネスの新世界記録となったという。Facebook参照 http://www.facebook.com/#!/photo.php?fbid=10151119418773595&set=a.10150256511693595.324180.361979158594&type=1&theater 

(4) 演劇公演「偉大なヨギ タクツァン・レパの生涯」、ブータン映画公開「サ ダン ナム」

ドゥルクパのブログ: http://www.drukpa.org

ADC についての詳細: http://www.drukpacouncil.org

 


追記3 ザンスカール仏教徒改宗じけんについて

926日付のKashimir-readerOnline版(http://www.kashmirreader.com/09252012-ND-tension-grips-zanskar-after-26-embrace-islam-4674.aspx )は、ザンスカールのパドゥムで5家族が、またザンラで1家族が仏教徒からイスラム教徒に改宗し、それを公表した処、住民の多数派である仏教徒側から抗議がなされ、改宗した26人に危害が加えられる恐れがあるとして、少数派のイスラム教徒側がカーギルの警察に訴えでて、緊張関係の拡大を恐れた警察がパドゥムに外出禁止令を出したと報道しました。更に、29日付のGreater Kashmir紙(http://www.greaterkashmir.com/news/2012/Sep/29/the-evil-of-caste-system-24.asp )は、ラダックの一般仏教徒はモン(楽師)、ガラ(鍛冶)、ベダ(楽師、鍛冶)の3つの特定カースト仏教徒集団を現在でも差別していると指摘し、今回の改宗者はそうした被差別カーストの人たちだと報道しました。

これらの報道は、カーギル・スリナガルのイスラムジャーナリズムのもので、仏教徒側の反論は929日付のReachLadakh紙(http://news.reachladakh.com/news-details.php?&108693961411532870111273317643&page=1&pID=1202&rID=0&cPath=4 )が、カーギルの仏教徒学生団体が抗議集会を開催し、それらの報道を悪意を持った根も葉もない仏教徒に対する侮辱であると抗議したことを報じています。また、104ReachLadakh紙(http://news.reachladakh.com/news-details.php?&1964552457172252351810759737&page=2&pID=1214&rID=0&cPath=4 )で、ラダック仏教徒協会の青年部代表が、カースト制は仏教の一部ではなく、その社会が持っている問題であり、それと改宗とが結び付けられるのは、その改宗が彼らの自由意志ではない事を示していると反論したこと、更にカーストに属する住民からザンスカール仏教徒協会に、1)社会的な尊厳(ドゥラル-集落の公的行事での席順の考慮)、2)彼らの調理した料理を共有すること、3)彼らが弓技に参加できること、4)カップや皿など食器の区別をなくすことの4つの提案を行ったことなどを報道しています。

10月に入って、事態は更に緊張の度を増し、双方が互いを非難し合い、デモンストレーションなどでは、負傷者も出ているようです。私が繋がっている部分のFacebookでは、仏教徒の間で、改宗容認派と反イスラム派が真剣な議論を交わしていました。

1026日には、ラダック仏教徒協会、ラダック僧院協会とザンスカール組織の代表がレーで共同記者会見を行い、イスラム教徒の組織であるカシミール解放戦線とフリヤットに対し、今回のザンスカールでの事件に関し、不正確且つ誇張した情報を故意に流していると非難し、更に、それらのイスラム組織のザンスカール事件への介入は、平和を乱し、混乱を巻き起こすことを狙った計画的な陰謀であると主張しました。

経緯とお互いの主張とそのエスカレーションは、1989年の暴動を思い起こさせるもので、これ以上の対立の拡大を、私は本当に恐れます。


 

ここで、このカースト集団についての資料を見てみましょう。これは、1996年にMartijn van Beekの博士論文 “Beyond Identity Fetishism: "Communal" Conflict in Ladakh and the Limits of Autonomyで報告され、山田孝子先生の「ラダック ―西チベットにおける病いと治療の民俗誌」で参照されている1989年の数字です。

 

ボト(一般ラダッキ)

べダ(楽師、鍛冶)

ガラ(鍛冶)

モン(楽師)

カーギル支区

13427

1

311

18

レー支区

61727

317

516

668

何故こういう数字があるかというと、198910月に、インドの憲法(Constitution (Jammu and Kashmir) Scheduled Tribes Order)で、ラダックの指定部族を8グループ指定し、その内の4グループの統計資料をこの表で示したものなのです。残り4グループは、バルティ、ダルド、チャンパ、プーリクパという地域的に限定される少数グループです。

もう一つ興味深い統計資料があります。出典は同じです。これはジャンム・カシミール州全体の数字ですので、ラダックだけを扱う上の表より、母集団が大きくなっています。

 

ボト(一般ラダッキ)

べダ(楽師、鍛冶)

ガラ(鍛冶)

モン(楽師)

仏教徒

76493

319

827

873

イスラム教徒

11265

0

0

0

ここで注意したいのは、ボトの中で、イスラム教徒が12.8%いることと、カースト集団では全員が仏教徒であることです。前述の新聞報道を考慮すると、20年以上経った現在、イスラム教徒の比率はどのグループでも拡大しているものと考えられます。

ここで、山田孝子先生の著作の中の、一つ興味深い話を思い出しました。それは、ラダックのシャーマン、ラバ・ラモの話です。シャーマンは村の日常生活の中での穢れや霊に関わる個人的な事柄を扱う専門家です。仏教の僧侶や行者、アムチなどと協力関係を持ちながら、自分たちの職掌を確保しています。穢れを祓うことで解決できない場合は、僧侶に患者を任せます。薬草などの必要があれば、アムチにそれを任せます。シャーマンになるには、高名な僧侶の支持・承認が必要です。ラバ・ラモの権威はそこから発生します。しかし、近年、シャーマンは高名になると、他村の患者や、仏教徒以外の患者、例えば、イスラム教徒やヒンドゥー教徒、更には外国人の患者も扱うようになって来たというのです。

そこで、カースト集団のことを考えなおすと、彼らの仏教徒集団への依存の度合いに変化が現れているのではないだろうかということです。例えば、楽師として、伝統的な村の集団儀礼にだけ参加しているのではなく、観光が、仏教という枠を超えて、彼らに活動の場を与えているのは確かでしょう。それは、シャーマンがイスラム教徒やヒンドゥー教徒も診るのと同じことといえます。それらが示しているのは、単にイスラム教徒やヒンドゥー教徒がラダックで増加していることより、ラダックの仏教を支えてきた社会が急激に変質しつつあるということでしょう。それは、仏教を強力な社会的な価値・規範としていた社会が、多様な規範が存在する社会へと変わりつつあるということなのです。そこで改宗やカースト制について考えると、この変化こそが仏教徒にとって、自身の信仰心を試す試金石になるのではないだろうかと思いました。


追記 2

追記 2
本文中、農村での労働力不足に関して、家族制度の変化、特に一妻多夫制の衰退をその一因として、考察しました。昨年(2011年)秋に、日本の民報によるラダック紹介番組が放映され、その中で一妻多夫制が興味本位に扱われていたということで、番組を批判する意見がネットで共有されました。その際の私の発言を以下に再録します。
“その番組を見ていないので、どう紹介されたのかわかりませんが、皆さんのお話から想像は出来ます。でも、ラダクの文化と歴史をある程度理解している側として、「今は行われていない」としか言わないのは、おかしいのではないでしょうか?
 まず、「一妻多夫制」は、ラダクの文化の中で大切な家庭と農業生産を規定する制度です。それが失われつつあることの意味を考え、その問題点を指摘しなければなりません。その消失のお陰で、ラダクの伝統農業は危機にひんしているのですから。
 また、その制度を否定したのは、インド政府ではありません。1941年ににラダクの仏教徒組織 Young Men's Buddhist Associationがそれを提唱し、ジャンムー・カシミール州議会に法案を提出し、イスラム派の賛成を受けて成立させた法律なのです。外から押し付けられた法律とは違うのです。1990年代まで、稀ですが、行われていたようで、LBAラダク仏教徒団体の執拗な撲滅運動がその頃起こっています。Pirie 2009をお読みになるといいと思います。.
 でも、基本線は「一妻多夫制」はチベット文化圏の重要な基盤を支えてきた家族制度だということです。恥ずかしいことではありません。”
この発言に関して、訂正するところは今のところ何もありません。
ただ、最近、チベット文化圏内での一妻多夫制の実態とその背景をめぐる考察が、名古屋大学大学院国際言語文化研究科の機関誌「多元文化」の第11号(2011年3月)に発表されたのを知りました。http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/tagen/tagenbunka/vol11/12.pdf
著者の六鹿桂子氏は、ご自身の中国雲南省徳欽県での調査(2004年と2006年)と、文献などで報告されているチベット、シッキム、ブータン、ネパール、ヒマーチャルでの調査や分析を整理され、結論として、労働力確保、資産分散防止、婚資負担軽減など経済的な共通要因もあるが、精神面での「同じ骨を持つ」兄弟という伝統的チベットの連帯意識、「チベット族は、兄弟を心ひとつの人であるとみなしている」という価値観がそれを支えていると考察されています。
制度の裏側にある、こういう文化的な価値を見つけ出していく事は、とても素晴らしいことといえます。当然、農業での共同作業をささえたランデ制にも、経済的合理性や必要性以外の、精神的な共同体一体意識を作り出す何かがあるはずで、仏教を含む、地域での宗教活動や用水路の共同管理などをもう少ししっかり観ていくことが必要だと思いました。

追記 1 チベット仏教に関して

追記 1
ラダックでの仏教に関して、今まであまり書いて来ませんでした。というのも、基礎知識の不足と現地での体験が限られていたからです。色々勉強しようとしていますが、どういう視点から見ればその全体が取り扱えるかについて、はっきりしたものを捕まえることができていません。
一昨日、チベット系のTwitterで、ネパールでのチベット仏教についての興味深い指摘として、広島大の別所祐介氏の最新の論文の紹介がありました。別所氏は、現在ネパールで起こっているチベット仏教の興隆と、それと反比例するような亡命チベット人達の社会的待遇について、報告されており、その視点は、チベットを中心として、同心円をなす、東部の四川省、青海省、南部のシッキム、ブータン、ネパール、そして西部のラダック、ヒマーチャルというヒマラヤ仏教地域を俯瞰しながら、この同心円の中間地帯(バッファーゾーン)としてのネパールの役割を考えておられます。
亡命チベット人たちとインド・ネパール国境をバスで越える話はワクワクドキドキですし、最近ネパールから頻繁に聞こえてくる亡命チベット人に対する圧力の裏側がよく理解できます。
別所氏の論文(二つあります)は、以下のページの「ハイペック・ディスカッションペーパーシリーズ」から読むことができます。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/hipec/ja/products/index.html

もう一つ、最近読んで感銘を受けたブログに、佐藤剛裕氏の「ヒマラヤ求法巡礼記」があります。西ネパールでの、大宗派寺院に属さない民間密教の実態を公開報告されています。
http://higan.net/apps/mt-cp.cgi?__mode=view&id=29&blog_id=73


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共通テーマ:日記・雑感

 [旅の計画]


今日は9月2日だ。7週間のインド滞在を終え、キングフィッシャーのフライトで、インダス川の渓谷の町レー(Leh)から、ザンスカール山塊(Zanskar Mountain Range)と大ヒマラヤ山脈(The Great Himalayan Mountain)を一気に飛び越え、デリー(Delhi)に向かう。インダス渓谷を西に向かう機内からは、居室の窓から毎日見上げていたスパンティン山(Spangting La)の氷河も、午前の柔らかい光で穏やかに輝いて見えた。リキル・ゴンパ(Likir Gompa)の仏様の金色の体が陽光にキラリと反射し、そのすぐ下のレストランで皆で何度か食事をしたことを思い出した。いつかここに戻ってくることがあるだろうかと思うと、いよいよラダック(Ladakh)を去るということが実感された。

飛行機は大きく左旋回し、銀鼠色に光るインダス川の谷を離れ、ザンスカール山塊の鋸の歯状の稜線上空に達すると、南方一面にモンスーンの雲海が広がっているのが見えた。その下のヒマラヤ山脈もその向こうのパンジャブ(Punjab)の大平原も雲海に埋もれ、どこに何があるのか、何の手がかりも見えなかった。


今、デリー空港でニューアーク行きのフライトを待ちながら、今回のラダックへの旅がどういう旅だったのかを考えている。期待と感激、不満と落胆とが混じり合った体験について、どうしてもそれをラダックに興味がある人たち、文化や自然な農業の持続に興味がある人たちに伝えたいという思いが強く湧き出てくるのを感じる。と同時に、ではその体験の中で見えてきた問題点などに対して、現実的にどう対応すればいいのかという疑問も湧いてくる。そういう錯綜する思いを文章にしてみる事で整理し直し、更にそれを伝えたい友人たちに見てもらおうと思って、これをまとめてみた。

ラダックは、北をカラコルム山脈、南を大ヒマラヤ山脈に挟まれた大山岳地帯の中、東はチベット、西はカシミール、ギルギットに囲まれたインダス川の渓谷とその支流の谷間を中心にした標高3000メートル以上の高地にある。住民はギルギットからチベットに至る広い山岳地帯に古くから住むダルド族やチベット族の末裔で、言語はチベット語族に属する言葉を話す。文化的には、東のチベットの仏教文化と西のカシミールのイスラム文化の境界にあり、双方からの影響を多大に受けてる。特に仏教は、チベットでの仏教が閉塞状態を迎える中、チベット仏教の西の中心として、古くからの僧院や地域に根づいた宗教文化が、近年注目されている。その東部の中心地レーは、西北インドでのヒマラヤ観光の中心である。近年、ラダックに興味を持ち、ヒマラヤトレッキング以外でも、サイクリング、ラフティング、祝祭巡りやゴンパ巡りなど様々な楽しみ方を求めて、そこを訪れる日本人が増えていることを聞いた。レーには日本人のガイドもいるらしい。さらに、美しく厳しいヒマラヤの自然の中で、自然農業を中心とする伝統文化をいまだに保持し続ける人びとの住むラダックというイメージは、エコツーリズムにとって恰好の地だ。これからの話を分かりやすくするため、ラダックの背景を簡単に説明しようと思う。以下の地図を参照して欲しい。

 http://en.wikipedia.org/wiki/Jammu_%26_Kashmir 

ラダックは、長い間、中央アジア・チベットとインドを結ぶカラコルムの東を抜ける重要な街道に位置し、チャンタン特産のパシュミナ・ウールやチベット・ルプシュの塩といった基幹商品を取り扱う拠点として、また文化的には、チベット特有の仏教文化を支える、西チベットの有力な地域だった(Rizvi 1996, 1999, Pirie 2009)。インド・パキスタンの英国からの独立の際、偶然にもインド領となったが、中国のアクサイ・チンとチベットの占領により1950年以降、特に1962年以降は、東と北からの交易交流が不可能になった。更に、カシミールという重要な文化・産業・農業の中心地をめぐるインド・パキスタンの数度にわたる軍事紛争をへて、カシミール、ギルギットなど西側の地方との交流が不安定になり、東西交易の中継地点としてのラダックは、その生命を絶たれることになった。1974年に国際的に扉が再開されたあと、ラダックは、インドにとっての軍事的な重要性とヒマラヤ観光以外、特別の意味を持たない一辺境の谷間になってしまっている。

私のラダックへの旅の発端は農業である。農業生産とその生産物の分配に興味を持っている私は、生産現場での経験と知見を広げるため、農業ボランティアを計画した。まず、2011年の5月に福島県会津のチャルジョウ農場で有機農業のボランティアを4週間、次に、同じような高所寒冷地域で自然農業を実践している、北インド・ジャンム・カシミール州(Jammu & Kashmir)のラダック(Ladakh)の農村での約一ヶ月の滞在である。5月に4週間滞在した会津山都町では、有機農業と会津の農村の再生に働く多くの若い友人を作ることが出来た。東日本大震災とそれに続く原子力発電所事故が原因の放射能汚染が進行する中、その汚染の中での有機農業生産とは何かを真剣に考え、行動していくこの友人たちには、深く感動させられた。同時に、土や野菜と直に対話をするような経験は、手や足といった私の体が何を好むのかを、鋭く私に自覚させてくれた。

さて、北インド・ラダックでの農業ボランティアは、ISEC (International Society for Ecology and Culture)というロンドンに本拠を置くNPO団体が主催する「Learning from Ladakh (ラダックから学ぼう)」というプログラムに参加することにした。というのも、ISECの代表のヘレナ・ノーバーグ・ホッジさん(Helena Norburg Hodge)の著書や映画で、ラダックを西チベットの伝統文化や自然農業を持続可能な形で現在も保持している農村社会と紹介されていたからだ。また、密教に興味がある私は、1970年代の終りに、ラダックに残っているチベット仏教とマンダラ類の調査に訪れた毎日新聞と高野山大学の合同調査隊の踏査記録を十数年前に読んでいて、是非ラダックに行って、その現実を見てみたいと思っていたこともある。

もう一つの大きな要素は息子の参加である。17歳の息子がその計画に興味を示し、私と2人で約1ヶ月の農業ボランティアを8月にするという計画の原型が出来上がった。彼は、高校の必須社会活動科目であるコミュニティ・ボランティア活動を、ラダックでの農業ボランティア活動で充当しようと考えていた。私と彼とは、ここ数年夏毎に、10日から2週間の自動車旅行を一緒にすることが恒例になっていた。このラダックへの旅はその延長線上に考えたのである。 

ただ、この旅に関して、特に考えておかねばならない点が二つあった。一つは言葉と文化の問題で、もうひとつは農作業の問題である。ラダックの文化に関しては幾つかの出版物が手に入ったが、ラダック語の言語習得用の教材が見つからない。我々が手に入れた教材はISECが作った10ページほどの誤植が随所にあるフレーズブックだけで、とてもではないが、それだけで、農作業を含む日常の会話が可能になるとは思えなかった。ラダック語はチベット語の近親語で、チベット語とは色々相違点があるということで、チベット語の教材は簡単に手に入った。結局、基本単語と簡単なフレーズ以外のラダック語習得は、現地で何とかしようと2人で話しあった。

次は農作業の問題である。5月の会津での体験は、庭仕事や裏庭に続く森での倒木処理等しか経験がなかった私を、何でもやってやろうじゃあないのという楽観主義者に変えてしまった。しかし、我が息子は、何時間も続く単調な作業や腰を折ったままの長時間農作業が出来るかどうか、本人にも見当がつかないようである。そういう作業が好きなのかどうかさえはっきり解らず、全く白紙の状態で望むしかない。私の会津での感動や発見の話を2人でかなりした。それと同じような体験を、息子も経験出来ることを期待して出発することにした。そして旅は始まった。

さて、この報告は次の三つの章から構成される。最初の章では、ヒマラヤの南山麓ヒマチャル・プラディシュ州(Himachal Pradesh)の町マナリ(Manali)からジャンム・カシミール州(Jammu & Kashmir)ラダック(Ladakh)地方の中心地であるレー(Leh)の町までの3日間のバス旅行について、第二章は、Learning from Ladakh(ラダックから学ぼう)というプログラムでの4週間のラダック・リキル(Likir)村農業体験記、最後の章では、その4週間の滞在の中で私達が直面したラダックの現実とその問題点の考察をする。

今回ラダックでの経験を記述するにあたって、私が思い描いていた文体は、旅行記と民俗誌と社会分析を、統一性のとれた視線と語り口で正確に且つ韻律的に考慮して記述することであった。それが、どういう形を取ったかは、読んででいただくとして、どうしても記述が単調になってしまったことは自覚している。どうぞ、ご容赦を。

大麦収穫期のリキル村とザンスカール山塊

2 [マナリからレーまでの道]


会津地方では、昔から、盆地の北に大きく横たわる飯豊山への一泊二日の登山が青年たちによって行われてきた。夏になると、一ノ木の集落から黒森山を経て塩竈神社を通り飯豊山に至る古くからの修験道の道を、若者たちは青年戒、成人社会への加入儀式として歩いた。
これから語ろうとする旅は、明らかに私達親子にとってのイニシエーション儀礼だったと思えるのである。

豪雨の中の出発

ロータン峠越え

7月中旬にインドに入国して、酷暑の中、大汗をかきながら、1週間かけて北インドのヒマチャル・プラデシュ州(Himachal Pradesh)のマナリ(Manali)まで来た私たち親子をモンスーンの雨雲が待ち構えていた。パンジャブ州(Punjab)からマナリに入る道も、増水した川水で何度も洗われ、私達の車は大穴や溜まった砂を避けながら、緑の濃い川沿いの道路を進む。マナリに到着した日には、大ヒマラヤ山脈の最初の難関、ロータン峠(Rohtang Pass, 3,978m)のトンネル工事現場で土石流が発生し、作業員が数名死亡し、マナリ-レー道路はそこかしこで土砂崩れのため寸断されているというニュースも入ってきた。私たちはここからバスで二日かけて、大ヒマラヤ山脈の南側面を登り、一旦キーロン(Keylong)のテントシティーで宿泊し、ザンスカール川(Zanskar River)の上流地帯を経て、更に標高5300メートルのティングリン峠(Tingling La)を越え、インダス川(Indus River)の上流からレーの町に入る計画である。

出発の2日前あたりから断続的に降っていた雨は、出発の当日には本格的な豪雨に変わり、川は数日前の光が煌めく清流と違って、濃い茶色の濁流で膨れあがっている。その雨の中を、HPTDC(Himachal Pradesh Tourism Development Corporation)という公共事業体が運営する、全席予約制リクライニングシート装備エアコン無しという20年前のデラックスバス(現在の最新バスはボルボコーチというエアコン付き)は、ほぼ満員の乗客を乗せて出発した。乗客はバスの前方の三分の一の座席をインド人観光客の若者たちが、バスの後部三分の一を韓国人と日本人の東アジア勢が、そして彼らに挟まれるようにして我々親子とヨーロッパからの中年カップル中心の観光客が占めている。前の方はヒンドゥー語で、おしりの方は韓国人の観光客は日本語ができるのか日本語が、そして真ん中は英語が共通語として、会話が交わされている。


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Figure 2: 道路にはそこかしこから水流が流れこむ    

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Figure 3:滝が幾筋も流れ落ちる崖

前日から気象警報が発令されている悪天候を押しての旅だが、問題はロータン峠(Rohtang Pass)にかけての大傾斜地帯、大ヒマラヤ山脈の最初の難関。この峠を境にモンスーン気候と別れて、ヒマラヤ高地の気候となる。しかし、連日の雨と先日の土石流で、道路はあちこち寸断され、応急の補修はされているが、いつ崩れても不思議はないということである。  
   
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Figure 5:出発はいつのことやら

バスに比べると小さなジープやマイクロバスは、警笛を鳴らし続けながら、どんどんバスを追い越して進んでいくが、我々のバスは泥田のような道路を、大シケの時の船のように車体を左右に大きく揺らせて、エンジン音を響かせながら、ゆっくり高度を稼いでいく。山はいたるところで大小の滝が流れ落ちている。道路にも流れ込んだ水が渦巻いている。マナリ-レー道路は大ヒマラヤ山脈を貫く幹線道路でありながら、上から大型車が来ると、すれ違いは肝を冷やすような狭さで、運転手たちは互いに確認しながら慎重にすれ違っていく。すれ違いの際に道路の状態の情報交換のため、窓を開けて、声を掛けあっている。

ロータン峠の手前の最後の休憩地で、運転手は大休止を宣言し、もし、このまま状況が好転しないなら、マナリにもどるという。それは困る。宿の手配なんて、一体どうするのか。雨は降り止まず、気温が下がってきたためか霧も深くなり、しかも夕闇が迫ってきた。こりゃダメかなと思っていると、車掌が「We will go!(出発しまーす)」と声をかけている。危険をある程度覚悟しての出発となったようだ。深いぬかるみのつづら折りを、バスはゆっくり登り始めた。  

大揺れの車内は概して静寂が支配していて、スレ違いや停止のたびにホーとかウーとかため息が聞こえるだけだ。元気なのは写真家たちだけで、彼らは窓にへばりついて次々に現れる白い滝や濁流の渓谷、窓に迫る巨岩の崖など車外の風景を追いかけている。灰色のセメント細工のような雪渓も雨水に刻まれて大きく凹んでいる。露で曇ったバスの窓から、突如、霧の中に雪山の稜線が見えてきた。バスはやっと峠を超えつつあるらしい。次第に霧が薄らいで、山容がはっきりしてくると同時に、雨も上がってきた。大ヒマラヤの南斜面を這い昇ってきたバスがやっと高原地帯に到着したというわけだ。

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Figure 6:下から登ってくるバスが見える 

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Figure 7: 初めて雪山が見えた

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Figure 8:モンスーンの雲に覆われた大ヒマラヤ山脈の山並み

大高原地帯

大ヒマラヤ山脈の中、スピティ(Spiti)からザンスカール山塊、チベットに続くルプシュ(Rupsh)の高原地帯側には、ヒマラヤ南面のような森林はもうなく、様々な形の岩や砂の色が映える裸の斜面があるだけだ。僅かな高山植物や地衣類などしか生えていない赤茶色や薄緑の斑模様の斜面と、雪や氷河で飾られた険しい岩肌の山頂部。景色は明らかに異質の気候を反映させている。ところどころに花の群生があるのを見ると、水分は朝露か霧か何かの形で補給されるのだろう。高原地帯と言っても平らなわけではなく、急峻な山の斜面を相変わらず這い回ってバスは進んでいく。

雨は完全に上がって、道路は工事現場のように砂埃で覆われ、バスの移動した後にはその砂埃が舞い上がる。その砂埃の雲を引きずりながら、最初の宿泊地、キーロンを目指す。道路脇には、ところどころに白いチョルテン(高さ2~3メートルほどの小型ストゥーパ・仏舎利塔)が現れだした。この高原地帯に住む放牧民チャンパ(Chang-pa)の人たちのものである。車が人々の移動の中心手段になっても、彼らは相変わらずここを馬や羊や山羊を追って歩いている。カシミヤ織の最高級品の原料であるパシュミナ・ウール(Pashm)はチャンタン地方の特産品で、この地域の山羊(Chang Thang goat)のお腹の毛から取れる。

 
標高が少し低い谷の中にバスが入ると、底を流れる川近くの斜面に区画を切るように人工的な線が現れだした。目を凝らすと、石垣で囲った耕地だ。じゃがいもが植わっている。豆のような作物も植わっている。花が咲いているのがわかる。かなり大きな畝もある。その周りに小さな石造りの平屋建て。集落も現れだした。2階建ての大きな家が10軒ほど、数本のポプラらしい木立と石垣で境をした緑色の耕地に囲まれて建っている。電柱が見えないところからすると、電気は来ていないのかも知れない。耕地は、畝のかたちがとてもランダムで美しい。機械を使っていないことが畝の形や大きさから想像できる。手作業でやるとかなり大変そうな大きさの畝もある。人影がないが、子供はいるんだろうか。学校はどうするんだろう。じゃがいもの発育だけを心にかけて、夢のように生きているんだろうか。谷の上の斜面からの土砂崩れで放棄された耕地もある。でも、集落の周りはしっかり手入れされているらしい緑濃い畑が続いている。 
 
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Figure 9:山間のじゃがいも畑           

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Figure 10:初めて現れた集落 

夕闇が迫って、薄暗がりになった道を、ヘッドライトも付けないでバスは走り続ける。道は相変わらずの凸凹、ジグザグで、運転手はよく見えるものだと感心しているうちに、今夜の宿泊地キーロン(Keylong)に到着した。ここではテントが準備されていて、その中の簡易ベッドで朝3時まで休憩し、4時には出発ということである。テントの数は十分あり、私たち親子は一つのテントで、同宿者もなく、ゆっくり休んだ。


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Figure 11: チョルテンが現れる              

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Figure 12:キーロンのテントシティー

2日目

ザンスカール川上流地域
暗い中を起きだして、バスに乗り込む。星空の様子から、今日は良い天気に恵まれたことがわかる。順調に行けば、今日は夕方にはレーに着くはず。午前中は予想通りの順調な、そして退屈な旅となった。風景は昨日と同じ砂漠と急峻な岩山と深い渓谷。時折、緑のパッチや花が咲いている山の斜面を登ったり谷に降りたり、氷河に飾られた山塊が現れると、その周りを迂回したり、相変わらず埃を巻き上げながら進む。強い日光で空調無しの車内は温められ、蒸し暑くさえなって来た。しかし、巻き上がった埃のため、窓は開けらない。

時折、インド軍の長い車列に遭遇することもあるが、ほとんどの通行人は、物資運搬の大型トラックと観光客を載せたジープだ。お昼を回ったところで、ダルチャ(Darcha)という休憩地に着いた。ここには警察の検問所があって、ここからの通行を止めていた。この先で大きな土砂崩れがあり、大型車は通行できないとのこと。現在復旧作業中だが、今日中に開通するかどうか分からないというのだ。早く復旧することを願って、ひたすら待つ事になった。

 
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Figure 13:インド軍の長い車列           

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Figure 14:急勾配の斜面を下るトラックと我々のバス

ここはザンスカール川の源流地帯の東側、大ヒマラヤ山脈とザンスカール山塊が分離を始める一帯で、標高6000メートルを超える山々が皺のように連なっている地域である。この休憩地も4000メートル前後の高さだ。道路の北側は平坦な土地が少しあり、その先は崖になっていて、ザンスカール川の支流が30メートルほど下を流れている。岩肌の色具合の変化や道路脇の麦の親類らしい植物などに気を取られているうち、息子がいないのに気が付いた。周りを見渡すと、道路脇の山側の急斜面の上に登って高みから谷を見下ろしている。私も同じ所に行こうとしたが、急峻な斜面を登るのに一苦労。高山病がそろそろ心配になりはじめる。息を弾ませながら、草が固まって生えて座布団のような塊になっている間の土の部分を、数歩登っては休む事を繰り返しながら、ゆっくり登るしかない。草が固まって生えるのは、互いに支えあって激しい風や雪解け水などで流されるのを防いでいるせいだと思われる。単独で生えた芽は育たないのだろう。一歩がとても重く、頭の中の血管が膨れあがって、ドクドク音をたてているようだ。息子はというと、更に上に登って行く。


午後の強い日差しの中、3時間ほど経ったが、検問所は開く気配もない。検問の警察官も道路脇のテントの中に入り込み、誰も外にいない。通行禁止の表示は、テントの反対側の道路端の杭に一端が結ばれ、道路上1メートルほどの中空に渡した、赤い布片を一枚真ん中から垂らしたロープ一本である。そのロープのもう一端が警察官のいるテントの中に引き込まれている。ジープなどの通行可能な車両が来ると、引きこまれているロープが緩められて、道路に落ちる。そのロープを踏んで、ジープは通過していく。ジープが去ると、テントの中にロープが引かれ、再び赤い布片が道路上に垂れ下がりる。。その間、警察官は誰もテントから出てこない。

強烈な直射日光の下、警察のテントと物憂げに張られた通行禁止のロープ以外、数軒の休憩所のテント、チョルテンがひとつと手押しポンプの井戸がひとつあるだけである。たまに通るジープなどのエンジン音以外、物音はあまりしない。物憂げな空気の中、カラスが一羽飛んできて、チョルテンの上の竿にとまろうとしている。しかし、竿の先端が尖すぎるのか、うまく安定してとまれないらしく、すぐ羽ばたいて姿勢を変えようとする。何度も繰り返していたが、数回高く鳴き声を立てると、諦めたのか山の方に飛んでいってしまった。またもや物音が途絶える。強い陽射は相変わらずだが、気温は余り揚がらない。しかし、その陽射に晒されていると、肌の下まで放射線に舐められて、道路に映る自分の影のなかに、骨格が透けて見えているようだ。

そのあたりを何度もめぐって時間を潰していた乗客たちが、ぞろぞろバスに戻り始めた。どうも、出発するらしい。でも道路が開通したわけではないという。車掌がきて、乗客達に説明するところを聞くと、ザンスカール川の上流に80キロほど迂回して、土砂崩れの箇所を避け、また、マナリ-レー道路に戻るという話である。しかし、このままではレーには今日中に辿りつけないので、サルチュ(Sarchu)という休憩地でもう一泊し、レー到着は明日のお昼頃ということだった。

  
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Figure 15:ザンスカール川上流         

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Figure 16:休憩所

迂回して、もう一泊

この迂回路だが、ダルチャから北に、ザンスカールの中心地であるカルシャ(Karsha)方面にむかい、途中カルギャグ(Kargyag)辺りから東南に転じ、標高5000メートル前後の峠をいくつか経てサルチュ(Sarchu)に抜けるという、普段は大型車両はあまり通らない裏道である。図らずして、ザンスカールの一番奥の地域に入り込むわけだ。そのあたりは1979年に佐藤健さんたちが大変苦労して踏査された辺りに近く(佐藤 1981)、佐藤さんの著書を愛読していた私には感慨深いものがあった。

例によって、夕暮れの薄闇の中を、ヘッドライトも点けずにかなりの時間を走った後、サルチュに到着したのは午後8時を回っていたと思う。バスの周りに、休憩所のテントがいくつか見える。今晩は自前で宿泊するということで、早速その一つを訪れ、宿泊場所の確保をする。幸い、簡易ベッドは無いが泊まれるテントが裏にあるということで、そこに荷物を運び込んで就寝準備。二人で100ルピーだった。

サルチュは標高が4200メートル。荷物を運んだり整理したり、ゴソゴソ動いているうちに、私はだんだん頭痛がひどくなり、吐き気までしてきた。夕食はその休憩所で食べるのだが、注文したTukpaというヌードルスープ(実はスープを吸って伸びきった2センチくらいの長さにちょんぎられたインスタントラーメン)も、匂いが鼻につき、一口食べると吐き気を催して、残りを食べる気力もなくなっていた。典型的な高山病だ。息子はと言うと、平気でヌードルをどんどん平らげている。私は食べることは諦めて、マサラティー(といってもミルクティーだが)だけ飲んでテントに戻ることにした。休憩所の外に出ると、空一面の星空だ。その中でも銀河が一際煌々と輝いている。見慣れた星座も幾つか認識できるが、光の壁のように密度が濃い銀河を前にして、全く知らない宇宙を初めて見ているような気がした。その空間は、世界が初めて聞く音楽で満たされているように感じられた。

3日目

ティングリン峠へ

朝、目を覚ますと、同じテントの中で、二人の中年男性が自分達の寝具を片付けたところで、仏教徒らしく、一人はvarada印(施無畏印の一部)を結んで暝想し、もう一人は目をつむってマントラを唱えている。衣類からするとラマ僧ではなさそう。酸欠の頭で思い起こすと、昨夜遅くなってから、同宿をお願いしますと頼まれて承諾したことが、うっすらと思い出された。ともかく、息子を起こして、洗面のためにテントの外に出た。首が真っ直ぐなのか傾いているのか認識できず、目は地面との距離が測れないようだし、真っ直ぐ歩くのに努力を要するなど、高山病は全く治っていないようだ。手押しポンプで水を汲み、洗面をしていると、朝日が登り出した。海抜4000メートルの朝日、空気も薄く、塵もなく、太陽光は遮られるものも無く、真っ直ぐここに届くようだ。
  
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Figure 17:海抜4000メートルの夜明け           

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Figure 18:ポンプ式の井戸で洗面

テントに戻ると、二人の同宿者は朝の勤行も終わって、座って話をしている。私たちも自己紹介をした。彼らはレーでの会議に参加するジャンム&カシミール州のお役人だそうだ。インドではお役人は威張りちらしているものとばかり思っていた私には、このニコニコしながら話をする二人の仏教徒のお役人は大変な驚きだった。ラダックでは仏教徒は日常どのように宗教行為をするのか興味がある私は、印を結んで暝想したりマントラを唱えての朝の勤行に新鮮な思いがした。
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Figure 19:まばらに咲く高山植物          

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Figure 20:青いビニールシートは世界共通

さて、これから標高5000メートルを超える峠をいくつか越えて、インダス川の上流にむかい、そこからインダス川の谷を下って目的地レーに入る。あと半日ほどの行程だ。

バスは相変わらずのペースで進んでいくが、私は頭痛が激しいので、姿勢をいろいろ変えたり、水を飲んだり、苦しんでいると、通路をはさんだ向こうに座っている、私と同年輩のウィーンから来た女性が、高山病の薬があるけど飲むかと尋ねてくれた。私としては早く体を高地に慣れさせないといけないと思っていたので、感謝したけれど、断った。この女性は、去年もラダックに来たのだそうで、ラダックでボランティア活動をするという。今年はヨーロッパの友人たちと寄付された古着を運んできているんだということだった。その配布が主な仕事らしい。でも、どの慈善団体にも属さないで、自分たちだけで楽しみながらやってるという感じで、慈善臭さが全くない。去年は洪水の時に居合わせて、大変な惨事を目撃し、災害復旧支援にも参加したと言っていた。


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Figure 21:峠にあるお堂             

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Figure 22:峠の標識 17582 フィート = 5359メートル

本日の最高地点である標高5359メートルのティングリン(タングランとも発音するらしく、地図によって表記が違う。ラダック語は村ごとにかなり発音が違うということだ。)峠に到着し、休憩である。峠には標高を記した標識が立っている。峠の神様を祀るお堂もある。経文を刷り込んだ色とりどりの小布片を軍艦の旗飾のように結んだ綱が、お堂の屋根から四方八方に伸びている。その経文の旗が強い風を切るように音を立てている。

休憩と言っても、私は頭は朦朧、目はしょぼしょぼ、息子に従ってうろうろと歩くだけで息が上がってくる。写真を何枚か撮った記憶はあるが、さだかではない。荷物を背負わせた馬とロバの群れを追って行くチャンパ(Changpa)の遊牧民の姿と「ギャラレーギャラロー」という峠の神様に祈る彼らの歌声を聞いたような気もするけれど、それも夢かもしれない。早々とバスに戻って寝てしまった。やがて出発。あと数時間でレーだ。

インダス川の渓谷

暫く行くと、広い河川敷を持つインダス川の谷に入った。両側の山も切り立った崖というより丘陵に近く、河川敷の一部は耕地や集落が占めているところもある。レーまでこの谷を下って行くのだが、昨年の洪水と土石流の痕がそこかしこに見える集落を幾つか通過した。崩れた石垣、土砂で埋まった家、腹の部分を抉り取られたり塗った色が剥げ落ち土色に変わったチョルテン、根こそぎ倒された楊の木の列。一方、復旧も進んでいるようで、建築中の家々も見えたし、畑では大麦が緑の穂を見せている。



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Figure 23: 洪水の爪痕が生々しい

道路の補修もいたるところで行われ、ネパーリ(ネパールからの季節労働者)やビハーリ(ビハール州からの季節労働者)など多数の季節労働者たちが石を刻んだり運んだりしている。男たちは草履にズボンとシャツ一枚で、石垣用の石を抱えて運んだり、積んだりしている。女たちは民族衣装にショールで目だけだして頭を包み、土埃の中、ハンマーで花崗岩の塊を砕いたり、スコップの首につけた紐を引いて、男がスコップで掻き取る砂利の量を増やす手伝いをしている。大型重機も動いていたが、運転手は上着を着て、ヘルメットを被っており、明らかに季節労働者とは違う。

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Figure 24: 復旧作業は続くが、麦はもう穂が出ている 

更に谷を下って行くと、インダス川の河川敷の幅が大きく広がり、道路際のポプラや楊の数も増え、緑も次第に濃くなって来た。道を行く車の数や種類も増え、タクシー等も見え出した。まもなくレーだ。


レーの町

商店の続く町筋

3日目に到着したレーの町は、土埃と牛糞と外国人観光客があふれ、牛たちとタクシーが狭い道を占領し、頻繁に鳴らされる車の警笛とともに、モスクからのアザーン(イスラム教の祈祷を促す呼び声)の声が劣悪な拡声器から突如響き渡る騒々しい町だった。これから5週間このあたりに滞在するのだ。

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Figure 25: レーの南に広がるザンスカール山塊

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Figure 26: レー旧市街の王宮とモスク


 
レーの町は古くからの王城がある東ラダックの中心である。王城の下のバザールを中心とする旧市街と、その南に広がるインド軍の駐屯地と空港の周りに広がる新興の商業地域、その二つを結ぶ地点にバスターミナルがある。バスターミナルからチョルテンを左に取り、衣類、雑貨、野菜や果物、敷物、靴屋などの小店舗が軒を並べる狭い坂道を登ると、大きな三叉路に出る。道に架かった真新しい高い門と巨大なマニ車(円筒の側面にマントラが刻まれ、回すことによりマントラを唱えたと同じ功徳があるチベット仏教の仏具)が市街地への入り口だ。ジープにトラック、軍用車両にバスやタクシーが、ひっきりなしに警笛を鳴らしながら、この三叉路に流れこんでくる。その周りを荷車を引く人たち、手にも頭にも大きな荷物を持った人たち、背負籠を背に、黒く長い外套スカートに三つ編みの長い髪のラダック女性たち、迷彩服を着たインド軍の軍人たち、赤いローブに片方の肩がむき出しの僧侶たち、バックパックを担いだ観光客が行き交う。

ここからバザールがある市街地中心まで行く道筋は、多くの機械や電気製品を扱う商店、建材屋、モダンなトイレや洗面台などを販売する店などが並んでいる。更に行くと、羊と思われる動物の下肢を吊るした肉屋や、種やコメなどの袋の口を開けた穀物商などが現れ、歩道部分が広くなって、穀物、果物や木の実、塩や香辛料の露天商が、様々な商品の入った袋の口を道路際に並べた背の低いテントの奥に座っている。これまで述べてきた商店は、ほとんどすべてがイスラム教徒のカシミール商人達の店である。

バザール

バザールに入ると、歩道にはラダックの女性たちの自家製野菜や果物の露店が20~30軒ほど並んでいる。露店といっても、歩道に座り、その前に広げた布の上に、エンドウ豆や人参、トマト、レタスやじゃがいもなどの季節の野菜と、アプリコットとりんごなどの果物に、生の牛乳などが並んでいる。皆同じ物を同じように並べて売っている。値段にも違いはない。それでも、早く売り切れる人とそうでない人との違いがあるようだ。その理由はよくわからないが、強いて言えば、場所に違いはあるかも知れない。例えば、観光客などは、バザールの端辺りでは、先になにか新しいものがあるかも知れないと思って、買い物は控えて先に進み、バザールの中ほどまで来ると、違いがないことに気づき、買い物をして、帰る。その結果、バザールの中ほどのほうが端より良く売れるというようなことだ。

車道部分は幅が広くなり、露店の野菜や果物を物色する観光客や地元の人びとは、その車道の端、露店の前を歩き、車は車道の真ん中を移動する。車や人に混じって、牛は自由に歩きたい所を歩く。

バザールに面した建物は、2階建てか3階建ての古い建物で、中に入っている店は、殆どが観光客相手のショールや民族衣装を売る土産物店や、インターネットカフェ、旅行代理店、チベットやラダックの仏具やアンティークの店ばかりである。それらの間に揚げパンや飲み物を売る食べ物屋や観光客用のレストランが混じっている。レーに一軒しかない酒屋は、それらに紛れて、表からは何を売っているのかはっきりしない佇まいだ。銀行の現金支払機の前には、観光客や軍人などの長い行列ができている。停電の合間に現金を払い出そうとする人たちだ。その長い列を尻目に、若いラダックの女性がさっさと割り込んでいく。ラダックの風習だと聞いた。
  
バザールに沿って仏教寺院とモスクがある。モスク近くはイスラム教徒たちの食べ物屋やパニールチーズ・バター・ヨーグルトを売る店や竈でチャパティや丸いパンを焼いて売っているパン屋、仕立屋、食器や調理用品から農具まで売る店などが続く。カシミール産の野菜と果物だけを売る店が十軒ほど集まった小さな市場もある。バナナ、ブドウやナシ、メロンなど、バザールでは見られない果物も豊富だ。

Sven Hedinの撮った写真などを見ると(Hedin 1909)、このバザールのある通りは町の入口を示す大きな門が南端にあり、バザールは十メートルを超えるポプラの大木が列をなして作る木陰の下にあったようだ。バザールの通りからは、裏側の、今はチベット土産物店が大きなテントを構えている空き地や広場に抜ける道が沢山ある。隊商の馬や羊、山羊やヤクなどの通路の後だ。このバザールは隊商が行き来した古い時代の面影をほんの少し残しているのだ。

読経の響き

バザールの端にはレーのチョカン・ゴンパ=仏教僧院がある。ラダックの民族衣装の女性たちや老人たちが次々と門の中に入って行く。中には大きなお堂が中心にあり、その前は広場と階段状に聴衆席が設けられている。広場は、順に座った人びとで已にぎっしりだ。整理役のラマ僧たちが行き来している。今日はティングスモガン・ゴンパ(Tingsmogang Gompa)に新しく建立されたストゥーパの開眼供養のためにラダックを訪れたリンポチェ=生き仏が説教をするというので、人びとが集まってきているのだ。老人が聴衆の中心だが、多くの中年や若者も混じり、子供たちも多く居る。老人たちや女性達は伝統的な黒や濃い茶色の襟の高い上着に刺繍を施したベストという衣装に身を包んでいる。少数だが伝統的な帽子をかぶった老女たちもいる。マントラを唱えながら、数珠を爪繰ったり、小型のマニ車を膝の上で回したりしながら、リンポチェを待っている。

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Figure 27 :レーの チョカン寺


 
やがて、通りに面した門にジープが到着し、5人ほどのラマ僧に囲まれてリンポチェがゴンパに入ってきた。周りの人に注意されないと、簡単に見落としてしまう普通の僧侶の恰好で、スタスタとお堂に入っていった。お堂の中で、リンポチェが席につき、僧侶たちが読経の準備ができると、拡声器からリンポチェの説教の声が聞こえてきた。聴衆の最前列の老人たちの中では五体投地礼をする人も出てきた。カタス(供物用のスカーフ)や花などをお供えする人びとがお堂の壇上に進んでいく。説教が終わると読経が始まり、リンポチェの読経の声が拡声器から聞こえだすと、僧侶たちも唱和する。柔らかい、ゆったりとした低い声での読経が、ゴンパ内だけでなく外にまで響き出す。

楊の木陰の道

バザールから王城の下の古い道を通り、モスクの前を横切って、家々が建込む中から、石垣に囲まれた麦畑と水路が爽やかに流れる曲りくねった狭い道を通って、郊外に抜け出る。騒音が次第に聞こえなくなり、風の爽やかさが肌で感じられるようになる。石垣や日干しレンガの2メートルほどの高さの塀に沿って、石と青草で端を固めた水路が流れ、こんもりした枝ぶりの楊の木が木陰の列を作っている。人びとが水路で洗濯などをしていたりする横を抜け、チョルテンや石仏の左を回って、ゲストハウスまで歩く。牛が寝ていたり、犬が屯していたり、ロバの群れを追っている人に出会ったりする。ロバたちは隙があれば逃げだしそうな様子だ。尻を叩かれ、叱咤されて、渋々人が行かせたい方向に移動していく。人びとはすれ違うとき、ジュレーと挨拶をする。ロバはジロリとこちらを見る。子供たちも気軽にジュレーと言ってくる。こちらも同じようにジュレーと応える。
 

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Figure 28:レーの裏通り                



犬達のこと

レーの町で、牛の次に目に付く動物は犬だ。インドでは、私達が周ったデリー(Delhi)でもアグラ(Agra)でもチャンディガル(Chandigarh)でも、どこにも多数の犬が居た。足が長く、胴はすっきりし、毛は短く、穏やかな細い顔立ちの犬達だ。彼らは飼い犬ではなく野犬だが、牛や猿と同じように、インド社会の中で己の居場所が確立されている、独立した社会的な存在である。人びとは犬を追い払ったりしない。犬達は自由に歩き回り、好きな場所で寝起きしている。それはレーでも同じだ。しかし、レーの場合、どうもそれは近年になって起こったことのようだ。古い記述を見ると、40年前には犬は僧院にしか居なかったようだ。(佐藤 1981 ) ネパールでも犬は僧院にいたようである。(中沢)後に紹介するリキル村には犬は全くいなかった。

その犬達が存在感を持つのは夜だ。毎夜十時を過ぎ、人びとが寝静まると、様々な方角から犬達の遠吠えが聞こえてくる。たまには、遠吠えだけでなく、大騒ぎになって、追いかけたり逃げたり噛まれたり泣いたりが一~二時間も続いたりする。それらが完全に収まるのは、朝の2時3時で、稀に朝方まで続くこともある。そんな時、やれやれやっと収まったかと思う間もなくアザーンの声に起こされる。ISECのプログラムの説明の中に、耳栓を用意すると良いと書いてあったことを思い出した。

昼間、犬達は自由に歩きまわっているが、近くに来たときに撫でようとして手を出しても、彼らは怯えたり威嚇したりしない。あるとき近寄ってきた犬を、動物好きの息子がその頭をチョンチョンと触ってやると、その後、我々が行く方角に、あたかも我々の目的地を知っていて道案内をするかのように、先にたって歩いて行くのである。我々との距離が広がると、立ち止まって我々を待っているようで、我々が近づくとまた歩き出す。あまりに長い間我々の先導をするので、少し奇妙に思い出した頃、すっと横道に入って行ってしまった。レーの不思議な犬だった。  
  
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Figure 29: 

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Figure 30:不思議な犬の後に従う我ら二人

こういう犬達の存在が観光業に与える悪影響を考慮したり、ヨーロッパを中心とする動物愛護精神の観点から、犬達を捕まえて、避妊手術を施したりする市民団体もある。しかし、犬達が僧院の外で生きて行けるのは、生ゴミなど十分な食料が町の中にあるからだと思われる。その生ゴミなどを出すのがレストランやゲストハウスなどの観光業なのだから、いかにも人間は身勝手だと思わざるを得ない。

さて、数日が経ち、レーの町にも慣れた頃、我々 LFL (Learning from Ladakh) 参加者人は、三日間ISECのオリエンテーションを受け、そののち、八月初旬からリキル村の9軒の農家での生活を始めることになった。


3 - 1 [リキル村での生活 - 生活基盤]

5週間の滞在で、一番私達を悩ませたのは、私達がエコツアーのゲストなのか、それとも農業ボランティアなのかということである。ISECのプログラムはその点を全く曖昧にしたまま、私達を農家に滞在させた。その結果、ゲストかボランティアかは各農家の判断に任され、農家によっては、全く他人の労働力を必要としていない家では、西欧からの長期滞在ゲストとして扱い、また、私達の場合のように、決定的に労働力が不足している家では、かなりな量の労働が期待されることになった。

しかし、農家の人々と私たちの共通理解の最低線は、私達がラダックの文化と農業に興味があり、それらを現実の生活の中で学びたいという意思を持ってやってきたということである。

リキル村のチャンダグ家

リキルの集落は、レーから西に40数キロのインダス川北岸、カラコルム山脈から分かれたラダック山塊から流れ出る、インダス川支流のリキル川の谷沿いにある。標高は3500メートル。リキル川沿いの谷の斜面とその周りの僅かな平地が濃い緑色の帯となって、取り囲むヒマラヤの茶色の山々とくっきりした対比を見せている。梢が高く伸びたポプラの林とこんもりした楊の列、棚田になった麦畑、その合間に散らばるチョルテン(小型仏舎利塔)やメンドン(マニ塔、マントラ=真言を刻んだ石で築く塀)、そして白く塗られた農家(仏教徒は家を白く塗り、イスラム教徒は家を塗らない)の四角い建物と中庭に立つダルチェン(厄除けに庭に立てる護符やヤクの尾などで飾られた竿)と 風になびく護符の旗。長く続く石垣は上流から導いてきた用水路。夏の日差しの中で、それらが輝いて見える。コンクリートやアスファルトなどの曖昧な色調に慣れた目には、リキルの村の色の鮮やかさは、新鮮な驚きだ。

 
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Figure 31:上リキル                  

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Figure 32: 中リキル


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Figure 33:下リキル                 

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Figure 34:リキル川対岸から見た中リキルと上リキル

リキル村は、仮に上、中、下と名付ける三つの集落からなり、上の集落にはリキル・ゴンパとゴンパ付属の小中学校が、下には公立の高校がある。三つの集落共に20から30軒の農家からなっている。どの集落にも、日用雑貨やジュースやコーラなどの飲料、飴やチューインガム、ポテトチップスなどの駄菓子や缶詰類を商う小さな店が1~2軒ある。上リキルのゴンパのすぐ下に、レストランが1軒、中リキルにも大きなゲストハウスが経営するレストランが1軒ある。ゲストハウスはどの集落にもたくさんある。

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Figure 35:チョルテンやダルチェンがあるチャンダグ家の中庭   

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Figure 36:チャンダグ家の家族

私と息子が指定されたのはチャンダグ家(チャンダグパ)。50代後半のお父さん(アバ-レ)とお母さん(アマ-レ)、その2歳になる孫(ノノ-レ)が暮らしている。アバレは若い頃はインド軍に勤務し、1971年のパキスタンとの戦争にも参加し、その後はヒマラヤの国境線の守備についていたそうだ。顔立ちはインド亜大陸人風で鼻の下に濃い髭をたくわえ、がっしりとした体格で、力も強い。アマレは10キロほど西にあるサスポル(Saspol)の村から嫁いできたそうだ。小柄で、純ラダック風の顔立ち。働き者と評判だ。学校は全く行かなかったそうだが、よく考えてしっかり判断する賢い女性だ。息子と娘が4人いるが、皆家を出て、レーの街で働いたり、近くの村の農家に嫁いだりしている。アバレに何時も付き纏っている泣き虫のノノは長女の子供で、レーで働く娘一家の手助けをするために預っているのだそうだ。

チャンダグ家にはかなり大きな耕地と八頭の牛と羊がいる。二頭の雌牛がミルクを供給する。耕地と家畜の世話だけで、かなりな労働力を必要とする。四頭の成牛は谷の一番下、川沿いにあるチャンダグ家の草場に毎日連れていく。谷の上にあるチャンダグ家からは30分程かかる。耕地は8畝の大麦畑、1畝の野菜畑、アプリコットとりんごの果樹園が数ヵ所。畑の境界や斜面にも家畜の冬の餌になるアルファルファやオルが植わっている。

家屋

家は3階建ての日干しレンガの古い農家。白く塗られているのは仏教徒の家の徴だ。1階は家畜部屋が大部分を占め、残りはトイレの糞尿貯蔵室。コンポストに人糞を使用するため、10畳くらいの部屋を仕切り、半分は1年間の熟成用、残り半分が今年分の貯蔵用にわかれている。年毎に熟成用と貯蔵用の仕切りを入れ替える。


      
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Figure 37:チャンダグ家の玄関から3階をみる     

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Figure 38:2階玄関に続く階段

2階が居住区。外からの土の階段が二階の玄関に通じている。玄関の壁の上には、魔除けのアイベックス(ヒマラヤ山系に棲む角の長い山羊, ibex)の頭蓋が掛けてある。建物に入ると、土間。ここには鎌や背負い紐、箒などを置く。この土間からは左右の壁際に二つの寝室、3階に登る階段、そして建物中央に居間、台所、食堂を兼ねる20畳ほどの木の床の部屋がある。古い建物なので、この20畳の部屋の木の床はあちこち磨り減って、波打っている。ただ、私たちの知っている木の床と違い、太い木組でできた床なので、磨り減って波打っていても、床は大変安定している。ただ、外からの土や埃で覆われており、朝夕に水をまいて埃を抑える。この部屋は大きいので、4本のポプラの柱を部屋の中で使って、梁を支えている。天井は梁と梁の間に楊の小枝を隙間なく並べ、その上は土で固めてある。この楊の枝は長年の竈の煙でいぶされて、真っ黒に光っている。

この部屋には、昔使用していたヤクや牛の糞を燃料に使う大きな竈と、その頃使用していた真鍮製で銅引きの大釜や大鍋、バター茶の保温用の鍋や薬缶などが並べてある造り付けの大食器棚、汲んできた飲料水を貯める水桶、調理用のプロパンガスのレンジとそれを置く台、窓際には幅1メートルほどで長さが5メートル、高さ20センチほどの絨毯張りの座席がある。その座席に直角に繋がった、食器棚の前の2メートルくらいの座机つきの部分は、ドゥラルゴ(dralgo)と呼ばれるアバレの席だ。家族やお客は、窓際に1列になって座を占める。この列のことをドゥラル(dral)という。この座の前には、移動可能な長さが1メートルで、幅が50センチほどの座机(chogtse)が幾つかある。これが食卓だ。アマレはこの列には座らず、その列に向き合って、40センチ四方の移動可能な箱座席に座って、お茶や食事の配膳給仕をする。ここに皆で一列に座ると、まるで禅寺で修禅をしているように見える。座る位置や順番は、アバレの席(dralgo)が一番格が高く、その隣から順番に、そこに座る人達の間でのランキングを反映して、座っていくということだ。しかし、異論のある人はその場で訂正を要求でき、それによって席順も替わるという。

この居室を取り囲むようにコメや小麦粉、大麦粉などの穀類やミルクなどを置く食料貯蔵室、灯油やプロパンガスボンベなどの燃料類が置かれた物置が配置されている。3階は2階の土間から木製の階段を使って登り、ゲスト用の部屋が3部屋と仏間、それにトイレが2階屋上に2棟に分かれて建てられている。チャンダグ家は、ゲストハウスとして生活体験希望の観光客をこれらの部屋に泊めている。

仏間は8畳くらいの部屋で、様々なタンカ(仏様や菩薩、チベット仏教の祖師たちの絵が描かれた掛け軸)や懸仏、ダライ・ラマやリンポチェたち(チベット仏教の生き仏・高僧達)の写真、太鼓や疑問符形をした撥や鈴などの仏教楽器、三鈷杵やその他の密教仏具が、座机や壁にかけられ、左右の壁際には僧侶が座るために、居間と同じ絨毯張りの座席がある。部屋の角には、灯油で朝夕2度ともす灯明のための煙突付きの灯明箱が置かれている。

さて、トイレだが、1階貯蔵室部分は先ほど説明した通り、そして、この3階部分が実際私たちが使う場所だ。現在貯蔵中の部分の真上に当たるところに、長方形の穴が開いており、ここから糞尿を1階に落とす。この穴の横の壁際には、大量の細かい粘土質の土とスコップが置かれており、一般的には、そのあたりに用を足し、それをスコップを使って土で丸めて下に落とす。穴にまたがるのは、風が下から吹き上げることが多いため、避けるべきと思った。ちなみに、ラダックではトイレットペーパーは使わない。使う場合は、インド国内と同じで、使った紙は下に落とさないで、ゴミとして扱い、後に焼却する。

3階の2棟の部屋の屋上は、はしごで登るようになっており、アルファルファやアプリコットなどを天日干しする場所だ。非常用の電源である太陽電池パネルも設置されている。


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Figure 39:屋上部;アルファルファが仮干ししてある   

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Figure 40:家畜用の囲い

地上部には1階の家畜部屋に連結して、成牛用の囲いがあり、5頭の牛がそこで飼われている。搾乳はその囲いから雌牛を1頭ずつ引き出して、中庭で行う。搾った牛乳は2階の食料貯蔵室のミルク桶に入れる。その一部からバターを採る。昔はバター作り用の桶に紐で回転させる攪拌機をいれ、それを手で引いて回転させて牛乳を攪拌してバターを作っていたそうだが、今では電動モーター付きの攪拌機で行う。アマレの仕事はスイッチをいれることと、たまに出来具合を調べることだけ。二十世紀における家事労働の近代化の中で、女性の家事労働からの開放という点では洗濯機が果たした役割が一番大きいということだが、ラダックではこの電動攪拌機がアマレたちを家事から一部開放したのではないかと思う。

電気ガス灯油など燃料

電気は今ではどの家にも来ており、毎日数時間の停電時間はあるが、基本的には毎日使える。電気器具も色々入ってきている。電灯は各部屋にあり、居間にはテレビもある。衛星放送が入り、NHKワールドも視聴できた。バター作り用の牛乳攪拌機も電動だ。ゲスト用に洗濯機も電気湯沸しポットもある。屋上には小型の太陽光発電パネルがあり、非常用の電灯につながっている。停電が頻繁に起こるので、これは貴重である。
調理はプロパンガスのコンロで行い、昔からの竈は使っていない。チャパティなどを焼くときやチャン(大麦のどぶろく)を作るため大麦を炊く場合は、圧力ポンプ付きの灯油コンロを使う。灯油コンロのほうが火力が強く、かつ燃料が廉価な為だ。また灯油コンロはどこにでも持ち歩けるという利点もある。ヤクや牛の糞を燃料にすることも、冬の暖房用を別にすると、野外だとか、香炉の火床にする以外、なくなってしまった。

樹木

家屋の中庭や敷地の端には、屋敷を取り囲むようにポプラの樹が、また、用水路の脇には楊の木が多く植えられている。ポプラは、幹の直径が15~ 20センチ以上になった梢は、根元から2メートルほどの高さで伐採して、皮を剥ぎ乾燥させて保存する。これは柱や梁など重要な建築材料になる。古い大きな樹はどれも、2メートルほどの高さの幹から何本にも枝が別れ、各々が10メートルから15メートルほどの高さに真っ直ぐ育つ。景観も美しく、かつ利用価値も大変高くなる。会津の太田さんのご指摘によると、これは家畜にひこばえを食べられないためにするかららしい。ヨーロッパでも同じような例があるとのことだ。そこで思い出したのは、北山杉もひこばえを伸ばすためにある高さで切ることが行われていたことだ。数年前に見たことがある。

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Figure 42: 水路に沿ったポプラと楊

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Figure 43: 楊の林


 
楊も同じように根元から2メートル程で枝分かれさせ、一本の幹から数十本の枝が育つようにしてある。楊の枝は直径2センチ位のものを天井を葺くのに使う。切り取った枝のまだ青い葉は、家畜に与えることもあるが、乾燥した落ち葉は、ポプラの落ち葉と一緒に堆肥に入れる。宇都宮(宇都宮 1970)に長野での楊栽培の話が出ている。やはり、小枝を数十本生えさせて、春と秋に刈り取り、行李や籠や家具細工用に出荷するとある。



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Figure 44: 楊の小枝の天井 

果樹の類では、アプリコットと林檎の木が多く植えられている。石垣で囲った果樹園から、用水路脇、谷の斜面など、色々なところに植えられている。もう一つ重要な木はシーバックソーン(sea buckthorn)だ。
 
小粒の実は集めてツェタルルというジュースにする。1~2メートルほどの樹高の茂みになり、バラの棘よりも長く鋭い棘がたくさん生える。この棘のため、畑の畦や果樹園の周りの塀代りに植えられており、家畜類も避ける危険な柵となっている。

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Figure 45: シーバックソーンの花 

天水が期待できないラダックでは、これらの樹木は、シーバックソーンを除いて、どれも水利の良い場に植わっている。



雨が極端に少ないラダック(年間降水量150ミリほど)では、昔は水が不足すると、雨乞いのお祈りではなく、カンカンと照る太陽を求めるお祭りをしたそうだ(Rizvi 1996)。というのも、氷河が主要な水源で、太陽熱で氷河の溶ける速度が早まると、水量が増えるからだ。夏の雨は、逆に歓迎されない。刈り取り作業が多い夏は、雨が降ると、刈り取る作物や草類が濡れ、刈り取りにくくなる上、担ぐ荷重が増えるからだ。また、乾燥にも時間をとられることになるので、雨は嫌われる。また、ラダックの土壌は灌漑されている部分を除いて、非常に乾燥している。そこに、雨が降ると、表土だけ濡れて滑りやすくなる。人や車が滑るのは勿論だが、土砂災害も起こりやすくなる。

インダス川沿いでは、農業用水は川からポンプで揚水することも行われているが、リキルではすべて氷河からの水が頼りだ。上リキルで用水路に取り入れられた水が、上―中―下と農業用や生活用に利用されながら、リキルをめぐる。水路沿いには、昔製粉用に使われた石造りの水車小屋(チュスカル)がまだ随所に残っている。主水路から様々に枝分かれして、水は畑の間を流れ、家々の間を流れ、リキル川に流れ込み、やがてインダス川に合流する。

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Figure 46: 水路と水車小屋


チャンダグ家のある下リキル左岸では、主水路からの水は半径10メートルほどの池に一旦貯められ、その一晩分の貯水量を日割りで各農家が農業用に利用する。この割当てはチュポンと呼ばれる集落の責任者が取り仕切っており、チャンダグ家は週に一度24時間の使用が認められている。その日は一日中アバレは給水のため、畑の間を跳び回ることになる。

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Figure 47:上リキルの用水路分岐点

水が豊富な上リキルと違い、下リキルでは飲料水は同じ農業用水路からの水だ。その中でも畑を潅水することが比較的少ない水路の水を、毎朝アバレが汲みに行く。ポリタンク二つに汲んできて、2階の水桶に入れる。これで一日分の炊事や飲料に使用する。洗濯や食器洗いは飲料水は使わない。

この飲料水は、我々外部から来たものは、そのままでは飲めない。馴れるまでは、飲むと確実にお腹を壊す。そのため、我々はセラミックフィルター付きの携帯浄水ポンプを持って行った。毎朝、ポンプで浄水して1リットル入りの水筒2本に詰めるのが、息子の日課になった。また、それに加えて、レーで調達したインド風緑茶葉をいれた水筒を、電気ポットで沸かしたお湯で満たして、飲んでいた。リキルの標高では、沸点が摂氏65度辺りなので、沸かしたからといって殺菌が完全ではない。LFLプログラムに参加した我々の仲間では、10人のうち2人がレーの病院に行かねばならないほど下痢と衰弱が悪化した。コメのスープがいいという話だったが、私の場合、抗生物質を数日飲み続けるのが一番効果的だった。息子のケースを後ほど紹介する。

チャンダグ家の中庭には、用水路からの水を受け取る水場がある。そこへの水は、隣家の果樹園から流れでて、路地を渡り、チャンダグ家の土塀の下から敷地の小さな窪地に流れ込む。窪地の底には鉛製のパイプが入っており、そこから窪地の水を吸い込む。そのパイプは、建物の脇の通路の横を通って中庭の水場の石組みの上から流れ落ちるように設定してある。このパイプの端にビニール製の1メートルほどのホースを付けてある。窪地から水場にはもうひとつ地表の溝を流れてくる水流がある。これは敷地内の樹木の給水と、中庭に出す仔牛など家畜類の給水のためのものだ。

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Figure 48:チャンダグ家に流れてくる水

この水場は、洗面、歯磨き、衣類の洗濯、食器洗い、野菜やアプリコットなどの水洗い、アプリコットの種洗いなどに使う。そのため、石鹸、歯磨き粉、食器洗い洗剤、洗濯洗剤、食器からの油や食べ物の残りなどがチャンダグ家から用水路に流れ出ていく。その内の一部は隣家まで流れて行っていると思う。それと同じことがチャンダグ家に流れてきている水でも言えると思う。

この水場には、夏の終わりには、週のうち2日か3日しか水は流れてこない。大きなドラム缶が四つあり、水量が豊富なときにそれらに満たしておいて、利用する。8月の初めに我々がチャンダグ家についた頃は、まだそれらは水で満たされていたが、ボウフラがたくさん泳いでいた。しかし、中旬をすぎる頃には、それさえ枯渇して、洗濯ができなくなることも数回あった。

水の使用に関しては、チャンダグ家では我々を含むゲストが水を大量に使用する。例えば、アマレはたまにしか衣類の洗濯をしない。衣類は3日か4日同じものを着ていることが多く、着替えてもそれをすぐ洗濯するということはなかった。それにひきかえ、私たちは3日一度くらいは洗濯をした。また、シャワーやお風呂はなく、体を毎日洗うようなことはしない。アバレは洗面の時に頭を濡れた手でゴシゴシ擦り、それで終わりだ。私も息子も坊主頭にしていたので、真似をした。私たち親子も結局レーに戻るまで4週間ほど一度も体を洗わなかったし、ヒゲも剃らなかった。日焼けもしていたお陰で、いつも日本人とラダキはそっくりだと言われていた。観光で訪れるゲストは、体を拭うためと思われるが、朝お湯を要求することが多いようだ。洗濯も含めると、ゲストの水使用量は家族の使用料をはるかに超えている。

アバレによると、水源である氷河が溶けて、小さくなりつつあること、ラダック山塊の冬の降雪量も減少していることなどが原因で、水の流量は年々減ってるということだった。

交通手段

リキルの村では自家用車を持っている農家は極めて少なく、ほとんどの村人はバスを使って移動する。
現在、村からラダックの中心のレーまでは、1日1便1往復のバスがある。片道2時間半ほどかかり、朝のバスでレーに行き、用を足した後、夕方のバスでリキルに戻る。アバレの子供の頃は、馬やロバに荷物を背負わせて、3日かけてレーに行き、1日滞在して、また3日かけてリキルに戻る1週間の旅程だったそうだ。

このバスは、下リキル発で、中リキル、そして上リキルと、まず村の中を一巡してから、国道に出て、レーに向かう。この村内一巡の間の利用は料金をとられないが、村を出て国道を走る部分はレーまで一人60ルピーだ。混んでいて、ずっとレーまで立ったままで乗ったときは50ルピーだった。まだ少年のような車掌は、屋根の上に乗っていると、移動中にもかかわらず、屋根まで料金を取りにやって来る。

バスは物流の重要な手段で、朝のバスには人だけでなく出荷する農産物も載せる。また、屋根には詰め替えが必要なプロパンガスボンベや灯油缶なども載せ、勿論、人も乗る。夕方の帰りのバスには、詰め替えが終わったプロパンガスボンベや灯油缶、村人が購入した物品等が屋根に載る。

面白いのは、ガスボンベや灯油缶を運ぶ場合、その家族が一緒にいくのではなく、車掌に詰替を依頼するのだ。レーに着くと燃料業者が待っていて、空のボンベや缶を受け取り、また夕方には詰め替えが終わったボンベや缶が、バスセンターに持って来られる。車掌はそれらをバスの屋根に載せてリキルまで持ち帰り、バス停で待っている注文した家族に渡す。燃料以外でも、出荷するエンドウ豆の袋から、小さな紙袋に入れた食べ物まで、委託される。車掌に委託するバスの運送業は結構繁盛している。料金はわからない。

週末のレー発のバスは、普段はレーに住んでいて週末だけ村に帰る人や買い出しの荷物なども加わり、大変に混雑する。出発の1時間前にバスに乗らないと、座席は確保できない。しかし、バスは行先表示がなく、また、バスセンター内での駐車位置が決まっていないため、私達のような旅行者には、自分の乗りたい行き先のバスを見つけるのは簡単ではない。運転手や車掌の顔を覚えておくか、バスのナンバープレートを記録しておくかして、自分の乗っていくバスを見つけなければならない。


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Figure 49: バスの屋根の乗客

村のバス以外に、レーとマナリ間、レーとスリナガル間など主要な村落や都市の間には、公営の長距離バスサービスがあり、途中の村々を結んでいる。これは座席指定の大型バスで、屋根に座ったり、屋根に荷物を載せたりはできない。しかも、料金は村から出るバスより高価だ。リキル村では停留所がNH1(国道一号線)に面した一ヵ所だけで、村の中までは入って来ない。そのため、村人はレーとの往復にはこれはあまり使わない。主に観光客と遠距離の旅に出る人が利用する。


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Figure 50:長距離バスの時刻表 

この長距離バスは、バスの一番前、運転手と車掌がいる部分が、ドアで客席と区切られている。実は、この車掌用の席に、車掌は乗客を載せることができる。しかし、この席は座席指定の席ではないため、乗車券は発行されない。車掌は少し安い料金で自分の客を数名ここに乗せる。つまり、ここは車掌と運転手の現金収入用の席なのだ。ここに座るには、直接車掌と話をする必要がある。しかし、車掌は制服を着ている訳でも、切符やお金を入れる鞄を持っているわけでもないので、バスの近くに行って、誰が車掌かを見分け、話をする。まだ空いていると、金額を言ってくれるが、もうふさがっていると、バスターミナルの切符売り場にいけと言われることになる。

タクシーは、多くが小型ジープや軽自動車のバンに、4人の乗客が掛けられるように座席を2列置いたものだ。ラダックは傾斜が大きく長い坂が多いため、インドの他の町のような三輪のタクシーはない。金銭的にはちょっと贅沢だが、数人で乗合で利用すると割安になる。リキルのゴンパ近くにタクシーが1台だけあり、普段は観光客用だが、緊急時には村人も利用する。出荷用のエンドウ豆の復路の準備に手間取り、バスに乗り遅れたのでタクシーを使ったという話を聞いた。豆を売っても元は取れなかったのではないかと思う。

レーの街には大量のタクシーがある。タクシーはメーターで料金を計算しないで、運転手との交渉で料金が決められる。自分の乗りたい区間の標準料金を、乗る前に知っておくことが必須だ。そうでないと、法外な料金をとられたことに後で気づいて悔しい思いをすることになる。レーのタクシー料金は、インド国内で一番高価だということだ(ISEC Workshop 2011)。

通信手段

ラダックでの主要な通信手段は携帯電話だ。固定電話もあるが、電気と同じで、回線が不通のことが多く、また、畑などに出ていることも多いため、携帯電話を誰もが持ち歩いている。チャンダグ家でも、固定電話の他、アバレもアマレも自分の携帯を持っていた。

私たち外国人は、インド政府の設けた制限のため、自分で持ってきた携帯電話の国際ローミングサービスを利用できない。地元専用の携帯電話を購入するしかないのだが、地元に知り合いなどがない場合は購入もままならない。お陰で、私たちは4週間ほど音信不通になっていた。

インターネットは、リキルでは利用できない。レーの町では多くのインターネットカフェがあり、頻繁に起こる停電時以外は、ごく気軽に利用できる。しかし、利用者はほとんどが外国人観光客だ。


病気

息子も私も普段は病気知らずで、薬のお世話になることも少ないのだが、今回の旅では、ペスト用の服用ワクチン、次に低地インドを旅するために、マラリアの予防薬を低地にいる間毎日とその前後の2週間飲むことになった。お陰で、どちらにもかからなかった。しかし、5週間のラダック滞在中、息子と私の体の調子はいつも順調というわけではなかった。

高山病

これは私が1週間ほど影響を受けた。頭痛と奇妙な酩酊感と吐き気。一番の薬は水で、大量な水を飲んだ。バス旅行中は飲料水の確保が難しかった。勿論、ペットボトル入りの水はどの休憩所でも購入が可能だが、廃棄するペットボトルのことを考えると、それは買えなかった。チャンダグ家では、ほとんど起こらなかった。

下痢

チャンダグ家に滞在して数日後から、それまで快調だった息子がひどい下痢に悩んだ。抗生物質を毎日服用したが、なかなか回復しなかった。飲料水はセラミックフィルターで濾過した水を飲んでいたが、お茶類は摂氏60度から70度辺りで沸騰したもので、不完全な煮沸が原因だったかも知れない。アルファルファの刈り入れなどの農作業も1日10時間を超え、疲労も蓄積し始めていたと思う。食べ物もアバレの作るマサラ味の野菜スープが中心で、タンパク質はミルクティーの牛乳とジョーという生ヨーグルトのみが供給源となっていた。果物も、アプリコットもりんごもまだ熟していなくて、食べられるものはない。そういうことが重なっての下痢だったかと思われる。

下痢が始まって2~3日して、息子にしては珍しく「作業が辛いので、寝ていたい」と言い出した。食欲がなく、アバレの料理は食べられなくなり、タギとミルクティだけ摂っている。果物が食べたいという。アマレに頼んで、米のスープ(ドゥラストゥク)を作ってもらう。おかゆと違って、本当にスープの中に米が沈んでいる。スープも重湯風ではなく、水っぽいスープだ。一口飲んで、息子は顔をしかめて、皿を横に押しやった。

脛をボリボリ掻きむしっているので、見てみると蕁麻疹だ。脛から腹にかけて結構出ている。それを見たアマレが心配して、レーの病院に行けという。風邪薬にアンチヒスタミンの成分が入っているのを思い出して、早速飲ませた。蕁麻疹は2~3日で治ったが、下痢は続いている。そこで私がやったのは、茶粥を作ることと、果物のジュースを手に入れることだった。

お茶はハーブが入ったインド風緑茶をレーで手に入れていたので、それでまずお茶を作り、そのお茶で米を煮て、おかゆを作った。しかし、沸点が低いため、普通の鍋では、長時間加熱しないと、米は煮えない。さらにおかゆ状にするには、時間がかかる。いつまでも米を煮ている私を、アマレは不思議そうに見ている。それでもなんとか柔らかくなり、塩味を付けた。変わった香りの茶粥だが、茶粥には違いない。それと、これもレーで買ってておいたカシミール産のゴーダチーズを数切れ、おかゆと一緒に息子に与えた。息子は気に入ったのか黙々と食べている。一安心。次はジュース。

レーの町では、瓶入りの果汁100%りんごジュースが手に入った。カシミールで作られて、瓶詰めにされたものだ。リキルでは、それも手に入らない。チャンダグ家でノノレに与えるジュースは、真っ赤な、人工着色料が鮮やかな、5%の果汁が入った甘い飲料だ。一口もらったが、あまりの毒々しさに閉口した。それ以外となると、川向こうの高校の前の雑貨・駄菓子屋にあるかどうか。また、そこまで行くとなると、谷を下りて川を渡り、向こう岸の崖を登り、高校の前まで歩くのだが、往復2時間弱かかる。アバレに断って時間をもらい、昼過ぎに出発した。

リキルでは、いつも二人で歩いているので、一人で歩くことが不思議な感じがする。川岸の崖の登りはかなりきつい。途中にチョルテンがあるのだが、そこで右繞することなど、普段は意識していなかったが、いつも息子が先にたって左に回っていたことが、思い出された。

崖を登り終えると、大きなチョルテンがあり、それを回ると、ゲストハウスが何軒も現れる。その1軒では、裏庭が広いポプラの林になっていて、そこでゲストはテントを張ってキャンプができるようになっている。そこでは生活体験ではなく、西欧風な林の中のキャンプ場での楽しいバーベキューなどが提供されるのだろう。

高校前には3軒の店がある。1軒は中にテーブルがあって、若者が数人座って何か飲んでいる。いわゆる田舎の飲み屋風だ。そこはちょっと敬遠する。その隣はイスラム商人らしい老人の店だ。中に入って、ジュースはあるかと英語で聞いたが、返事が理解出来ない。冷蔵庫があるので、それをのぞかせてもらう。コークや例の果汁5%の真っ赤な飲料はあるが、こちらの欲しいジュースはない。果物の缶詰を探すと、棚に何個か缶詰を見つけた。見せてもらったが、なんと魚の缶詰だった。諦めて、女性が店番をしている隣の店に行く。小さな店だが、店の前にテーブルを出していて、そこでお客が飲み物を飲んだり出来るようになっている。棚を物色すると、なんとライチーの果汁100%ジュースのパックがあった。6個あるのを、全部買った。網袋に入れると、結構な重さだ。果物の缶詰はなく、やはり魚の缶詰ばかりだった。缶詰の魚は、リキルでも食べる人が結構いるということか。

帰路を急ぐ。川を渡る所で、網袋毎川の流れにつけて、少し冷やす。川を渡ると、チャンダグ家の草場があり、牛達はまだいる。もう4時近くなので、少し早いが連れて帰ることにする。まだ早い時間なので、牛達は草場に散らばっている。チッチッと口を鳴らして牛達を集めて、坂道に追い立てる。後は牛任せ。

チャンダグ家に帰りついて、早速息子にジュースを飲ませる。「ライチージュースとは」と言って驚いている。インドでライチーが採れるのかどうか聞くのだが、私にはよく分からない。瞬く間に、一パックを飲み干す。気に入ったようだ。これなら、治るのは時間の問題だと思った。案の定、以後順調に回復した。


3 - 2 [リキル村での生活 - チャンダグ家の一日]

起床と洗面 

起床は朝六時。南に聳えるザンスカール山塊の山頂部分が朝日で赤く染まり始めると起床だ。アバレが起きだして、ポリタンクを二つ下げて、飲料水を汲みに行く。その足音を聞くと、私は起きだして、中庭の水場に洗面に行く。流水がある日はそれで顔を洗い歯を磨く。ない日はドラム缶から、缶詰の空き缶の水桶で水を汲み出して、それで洗面する。アバレの洗面を見ていると、空き缶に満たした水をまず片手に受け、次にそれで両手を満遍なく濡らし、石鹸を泡立てて、顔と手を洗う。もう一杯手に受けて、石鹸を流す。次の一杯で口を漱ぎ、歯を磨いたあと、もう一度漱ぐ。最後に残った水で頭をゴシゴシ洗う。一缶の水だけで、歯磨きから洗面までをこなす。水の使用量をいつも気にかけている事がわかる。

朝の勤行

洗面が終わると、私は香炉の火床を作るために牛糞を拾いに行く。建物の外に牛糞を集めてある所があり、そこで乾燥して固くなった糞の中から、繊維質が多いものを砕いて、小石ほどの大きさにし、それを五~六個集めて、香炉に並べ、灯油を少量かけてから点火する。そのまま十分ほど燃やすと良い火床ができる。水汲みから戻ったアバレが汲んできた水を閼伽行の水差し(薬缶だが)に移し、それをもって三階の仏間に行く。私も助手の小僧のようにお伴する。朝のお勤めだ。

まず御灯明をチェックする。煙突がついたブリキ製の灯明箱には、六個の灯明皿が入っている。毎日、朝と夕に一つずつ灯する。六個とも使ってしまった日は、三日分の御灯明を準備する。まず、灯芯を六本作る。木綿糸の束から、一本の糸を抜き出し、一束の長さで六本切り出す。一本ずつ二つ折りにして撚り上げる。これを灯明皿の中央にある穴にマッチの軸でねじり込む。そして、灯油を皿に満たし、灯芯も灯油で濡らす。これを灯明箱に並べると準備完了。

さて、仏間の正面の壁には、様々な仏様や菩薩達のタンカが掛けられ、ダライ・ラマやリンポチェの写真が貼ってある。その前にカタスで包まれた仏様の像が安置されている。どの仏様かは布で包まれているため、明らかではない。その前に座机(chogtse)があり、二十四個の銀と銅の水皿と供物の五穀の皿が乗っている。お賽銭もそのあたりにおいてある。ゲストの顔ぶれを反映してヨーロッパの国々の紙幣が目につく。

座机の前に座ったアバレは、真言を唱えながら、二十四個の水皿を、1枚ずつ布巾で丁寧に拭ったあと、座机の上に三列に並べる。そして、各々の皿に水差しから水を手向ける。それから、五穀を掌に受けて印を結んで、五穀豊穣のマントラを唱える。それが終わると、部屋の角にある灯明箱の御燈明に火を灯し、準備した香炉にお香をくべ、私がその香炉をもって仏間から三階の各部屋を回る。お香の煙と匂いがあたりに立ち込める。香炉は火が点いたままで建物の外に置く。このあと、五体投地礼で礼拝をする。私はその間般若心経を唱え、アバレも真言かお経を唱えてる。これで約二十分から三十分かかる。

早朝食と早朝作業

仏間を出て居間に行くと、アマレがお茶の準備をしていて、朝のお茶になる。我が息子もこのころまでには洗面を済ませて、朝のお茶を皆で頂く。朝のお茶は多くの場合ミルクティーだ。それと一緒にパンをいただく。パンはイーストが入った柔らかいパンではなく、タギと呼ぶ、手で割るとぼろぼろ崩れる二十センチほどの丸いパンだが、香ばしくて、噛んでいると甘さがじんわり出てくる。窯で焼かず鉄板の上で焼く。これと同じで、五センチほどのものもある。二日もすると、このパンは干したアプリコットのように固くなるが、それをお茶に浸して柔らかくして食べる。この時、アバレは、ラジオで、唯一のラダック語放送のニュースを聞く。

お茶が終わると七時を少し回った頃だ。これから早朝の農作業が始まる。アバレと私たち親子は畑や果樹園に行き、アマレは牛の搾乳や台所の片付けをする。この早朝の作業は二時間くらい。この時間帯は、気温が高くなく、日射も激しくないので、気持ちよく作業ができる。それに二時間ほどなので、疲れ果てるほどでもない。それが終わると朝食だ。

朝食

朝食は家に戻って摂る。ミルクティーかチャカンテ(バター茶)と、小麦粉の薄焼きチャパティを三から四枚、バターやジャムを塗ったり、ジョーという生ヨーグルトに浸したりして食べる。ジョーは、ほんのり酸味がするのを一椀。私の好物と知って、アマレは二碗目を勧める。

ちなみに、ミルクティーは明らかに近年インドからラダックに入ってきた飲み物で、普通の紅茶に砂糖とバターを採った残りの牛乳を入れて沸騰させたものだ。それに対し、伝統的なチャカンテは、醗酵させた緑茶を使い、生バターと塩をグルグルという一メートルほどの細長い筒状の攪拌機に入れ、水鉄砲のように取っ手を押したり引いたりして、筒の中のお茶とバターを攪拌する。その時出るブクブクという音が、グルグルという名前の出所だという。チベットとの交易が絶たれ、中国産の緑茶が簡単に手に入らなくなった現在、緑茶は地元産だとアバレは言っていた。

午前の作業

一時間ほどで朝食を終え、午前の作業に出る。四頭の牛たちを川沿いの放牧地か谷の斜面の草地に連れていき、一日そこで草を食べさせる。牛達は通いなれた道を覚えていて、こちらの先導なしで、草場まで歩いて行く。こちらは、速度が遅くならないように、また後続勢がはぐれないようにして、追っていく。牛達の中で、メスの黒牛がリーダーで、残りの三頭は彼女に従って歩いて行く。途中にチョルテンやがメンドン(マニ塔)が何箇所かあり、そこは右繞、つまり、チョルテンに向かって左側通行をしなくてはいけない。牛達は、そこはお構いなしに歩いて行くので、反対側にいった牛を追うことが難しくなる。メンドンは長さが十メートルを超えるような長さのものも稀ではないので、アバレは小石などを投げて反対側の牛達を追い立てる。

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Figure 51:朝、牛を追って谷を下りる          

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Figure 52:牛を放す川沿いの草地

草場は川岸にあり、高さ一メートル五十くらいの高さの石垣で囲まれている。本流から取り込んだ支流が流れ、楊の木が茂り、その下は青草が茂っている。牛達が楊の木陰で草を食べ水が飲めるようになっている。まるで、絵に書いたような放牧地だ。ここでは、草に加えて、楊の枝を四~五本切り落として、その葉を食べさせたりする。

この草場の斜面側は、石垣の上に、草場より一段高く畑が作ってあり、はしごで登ると、ポプラの林の下にアルファルファが植わっている。草場との境の石垣の上は、棘だらけのシーバックソーンの枯れ枝を積み上げ、牛達が登れないようにしてある。ここでアルファルファを刈って、夕方、牛達を連れて帰る際に四十キロほどの束にして、背負い紐で背負って帰る。

帰り道は、朝と同じように、牛達はリーダーの黒雌牛の先導で、チャンダグ家まで戻る。アバレが先に回って、牛の囲いの扉を開いて待っていてくれる。これが閉まっていると、牛達は混乱して、特に茶色の雌牛はチャンスとばかりに勝手な方に行ってしまう。息子はそんな時うまく捕まえて連れ戻すが、私は二度も逃げられて、アバレに助けを求めることになった。

昼食と午後の作業

午後の一時から二時が昼食時だ。アマレがお昼ごはんとお茶(チャカンテが多い)をもって、私たちの作業しているところまでやって来る。お昼ごはんは、炊いたお米にマサラ味のマメ(レンティル)スープだったり、チャパティと野菜スープなど。一椀のスープにチャパティを浸して食べたり、一皿のお米の上にスープを掛けたりしたのをいただく。大麦粉(ツァンパ)を水で練った団子が付いている時もある。作業がきつい日は、アバレはチャン(大麦で作るどぶろく)を飲んだりする。一緒に作業する人たちがお相伴する時もある。お昼ごはんのあとは夕暮れまでまた作業だ。

作業が終わると牛たちを連れて帰る。途中野菜畑によって夕飯の材料の野菜を採り、用水路で洗って家に持って帰る。帰ると牛の搾乳をして、またお茶だ。このお茶の時はミルクティー以外ほとんどほかのものは食べない。

夕食

それから夕食準備にかかる。調理は居間・食堂・台所兼用の二十畳の部屋でする。木の床が調理台で、風呂敷ほどの大きさの布を引き、その上に俎板や小麦粉の練皿などをおいて、調理する。加熱は同じ部屋の壁際にあるプロパンガスコンロを使う。標高三千五百メートルだと沸点が摂氏六十五度に下がるため、加熱は圧力鍋で、長時間かけて行う。

チャンダグ家では、少人数の食事の場合、アバレが主に調理する。尤も、そのために献立は単調なマサラ味のものばかりになる。アバレの号令のもと、我々も手伝う。ミルクティーを入れたり、エンドウ豆を莢から取り出したり、炒めた野菜の味付けの助手は息子の仕事だ。私は、玉ねぎ、人参、トマトなどの野菜を切ったり、ヌードルの準備を手伝ったりする。米はインド政府の低価格補助のものだが、品質の悪さに閉口する。米の中の砂や雑穀やゴミが多く、取り除くのに手間がとてもかかる。野菜くずやエンドウ豆の莢や米から取り除いた雑穀などは、牛の餌にするためにポットに溜める。やがて、テレビが点けられ、ヒンドゥー語のニュース番組などを見ながら、夕食の準備をする。

ゲストが泊まる日は、献立もすこし種類や中身が濃くなり、今度は、アマレが号令をかけて、皆で準備をする。お米とマサラ味の野菜スープやレンティルスープ、小麦粉で作ったうどんのような細切りヌードルや、指で摘んで貝殻のような形にしたヌードルが入った野菜スープ(tukpa)だったり、野菜餃子のような小麦粉の皮で野菜の微塵切りを炒めたものを包んで、蒸し器で蒸したモモだったりする。羊肉は稀に出るが、量は少なく、一皿に肉の小片が二~三切れだ。魚はほとんど食べない。

夕食はどうしても八時過ぎになってしまう。ゲストが泊まる晩は、彼らも夕食を一緒に取る。アマレが床の上で皿に盛り分け、アバレから始まり、皆に順に皿を配る。皆に行き渡ると、アバレがマントラを唱え、我々も合掌する。それからは、片言のラダック語と英語で歓談をしながらの食事だ。難しいことは言えない。ゲストがいると、リキルの文化や生活に関する様々な質問が英語で我々親子に飛んできたりする。アバレが答えるべきだと思いながら、答えた。九時過ぎには夕ごはんも終わり、お休みなさい(ジュレーだけれども)を言って、各自部屋に戻る。裸電球の下で本を読んだりして、十時には就寝する。


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