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5週間の滞在で、一番私達を悩ませたのは、私達がエコツアーのゲストなのか、それとも農業ボランティアなのかということである。ISECのプログラムはその点を全く曖昧にしたまま、私達を農家に滞在させた。その結果、ゲストかボランティアかは各農家の判断に任され、農家によっては、全く他人の労働力を必要としていない家では、西欧からの長期滞在ゲストとして扱い、また、私達の場合のように、決定的に労働力が不足している家では、かなりな量の労働が期待されることになった。

しかし、農家の人々と私たちの共通理解の最低線は、私達がラダックの文化と農業に興味があり、それらを現実の生活の中で学びたいという意思を持ってやってきたということである。

リキル村のチャンダグ家

リキルの集落は、レーから西に40数キロのインダス川北岸、カラコルム山脈から分かれたラダック山塊から流れ出る、インダス川支流のリキル川の谷沿いにある。標高は3500メートル。リキル川沿いの谷の斜面とその周りの僅かな平地が濃い緑色の帯となって、取り囲むヒマラヤの茶色の山々とくっきりした対比を見せている。梢が高く伸びたポプラの林とこんもりした楊の列、棚田になった麦畑、その合間に散らばるチョルテン(小型仏舎利塔)やメンドン(マニ塔、マントラ=真言を刻んだ石で築く塀)、そして白く塗られた農家(仏教徒は家を白く塗り、イスラム教徒は家を塗らない)の四角い建物と中庭に立つダルチェン(厄除けに庭に立てる護符やヤクの尾などで飾られた竿)と 風になびく護符の旗。長く続く石垣は上流から導いてきた用水路。夏の日差しの中で、それらが輝いて見える。コンクリートやアスファルトなどの曖昧な色調に慣れた目には、リキルの村の色の鮮やかさは、新鮮な驚きだ。

 
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Figure 31:上リキル                  

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Figure 32: 中リキル


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Figure 33:下リキル                 

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Figure 34:リキル川対岸から見た中リキルと上リキル

リキル村は、仮に上、中、下と名付ける三つの集落からなり、上の集落にはリキル・ゴンパとゴンパ付属の小中学校が、下には公立の高校がある。三つの集落共に20から30軒の農家からなっている。どの集落にも、日用雑貨やジュースやコーラなどの飲料、飴やチューインガム、ポテトチップスなどの駄菓子や缶詰類を商う小さな店が1~2軒ある。上リキルのゴンパのすぐ下に、レストランが1軒、中リキルにも大きなゲストハウスが経営するレストランが1軒ある。ゲストハウスはどの集落にもたくさんある。

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Figure 35:チョルテンやダルチェンがあるチャンダグ家の中庭   

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Figure 36:チャンダグ家の家族

私と息子が指定されたのはチャンダグ家(チャンダグパ)。50代後半のお父さん(アバ-レ)とお母さん(アマ-レ)、その2歳になる孫(ノノ-レ)が暮らしている。アバレは若い頃はインド軍に勤務し、1971年のパキスタンとの戦争にも参加し、その後はヒマラヤの国境線の守備についていたそうだ。顔立ちはインド亜大陸人風で鼻の下に濃い髭をたくわえ、がっしりとした体格で、力も強い。アマレは10キロほど西にあるサスポル(Saspol)の村から嫁いできたそうだ。小柄で、純ラダック風の顔立ち。働き者と評判だ。学校は全く行かなかったそうだが、よく考えてしっかり判断する賢い女性だ。息子と娘が4人いるが、皆家を出て、レーの街で働いたり、近くの村の農家に嫁いだりしている。アバレに何時も付き纏っている泣き虫のノノは長女の子供で、レーで働く娘一家の手助けをするために預っているのだそうだ。

チャンダグ家にはかなり大きな耕地と八頭の牛と羊がいる。二頭の雌牛がミルクを供給する。耕地と家畜の世話だけで、かなりな労働力を必要とする。四頭の成牛は谷の一番下、川沿いにあるチャンダグ家の草場に毎日連れていく。谷の上にあるチャンダグ家からは30分程かかる。耕地は8畝の大麦畑、1畝の野菜畑、アプリコットとりんごの果樹園が数ヵ所。畑の境界や斜面にも家畜の冬の餌になるアルファルファやオルが植わっている。

家屋

家は3階建ての日干しレンガの古い農家。白く塗られているのは仏教徒の家の徴だ。1階は家畜部屋が大部分を占め、残りはトイレの糞尿貯蔵室。コンポストに人糞を使用するため、10畳くらいの部屋を仕切り、半分は1年間の熟成用、残り半分が今年分の貯蔵用にわかれている。年毎に熟成用と貯蔵用の仕切りを入れ替える。


      
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Figure 37:チャンダグ家の玄関から3階をみる     

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Figure 38:2階玄関に続く階段

2階が居住区。外からの土の階段が二階の玄関に通じている。玄関の壁の上には、魔除けのアイベックス(ヒマラヤ山系に棲む角の長い山羊, ibex)の頭蓋が掛けてある。建物に入ると、土間。ここには鎌や背負い紐、箒などを置く。この土間からは左右の壁際に二つの寝室、3階に登る階段、そして建物中央に居間、台所、食堂を兼ねる20畳ほどの木の床の部屋がある。古い建物なので、この20畳の部屋の木の床はあちこち磨り減って、波打っている。ただ、私たちの知っている木の床と違い、太い木組でできた床なので、磨り減って波打っていても、床は大変安定している。ただ、外からの土や埃で覆われており、朝夕に水をまいて埃を抑える。この部屋は大きいので、4本のポプラの柱を部屋の中で使って、梁を支えている。天井は梁と梁の間に楊の小枝を隙間なく並べ、その上は土で固めてある。この楊の枝は長年の竈の煙でいぶされて、真っ黒に光っている。

この部屋には、昔使用していたヤクや牛の糞を燃料に使う大きな竈と、その頃使用していた真鍮製で銅引きの大釜や大鍋、バター茶の保温用の鍋や薬缶などが並べてある造り付けの大食器棚、汲んできた飲料水を貯める水桶、調理用のプロパンガスのレンジとそれを置く台、窓際には幅1メートルほどで長さが5メートル、高さ20センチほどの絨毯張りの座席がある。その座席に直角に繋がった、食器棚の前の2メートルくらいの座机つきの部分は、ドゥラルゴ(dralgo)と呼ばれるアバレの席だ。家族やお客は、窓際に1列になって座を占める。この列のことをドゥラル(dral)という。この座の前には、移動可能な長さが1メートルで、幅が50センチほどの座机(chogtse)が幾つかある。これが食卓だ。アマレはこの列には座らず、その列に向き合って、40センチ四方の移動可能な箱座席に座って、お茶や食事の配膳給仕をする。ここに皆で一列に座ると、まるで禅寺で修禅をしているように見える。座る位置や順番は、アバレの席(dralgo)が一番格が高く、その隣から順番に、そこに座る人達の間でのランキングを反映して、座っていくということだ。しかし、異論のある人はその場で訂正を要求でき、それによって席順も替わるという。

この居室を取り囲むようにコメや小麦粉、大麦粉などの穀類やミルクなどを置く食料貯蔵室、灯油やプロパンガスボンベなどの燃料類が置かれた物置が配置されている。3階は2階の土間から木製の階段を使って登り、ゲスト用の部屋が3部屋と仏間、それにトイレが2階屋上に2棟に分かれて建てられている。チャンダグ家は、ゲストハウスとして生活体験希望の観光客をこれらの部屋に泊めている。

仏間は8畳くらいの部屋で、様々なタンカ(仏様や菩薩、チベット仏教の祖師たちの絵が描かれた掛け軸)や懸仏、ダライ・ラマやリンポチェたち(チベット仏教の生き仏・高僧達)の写真、太鼓や疑問符形をした撥や鈴などの仏教楽器、三鈷杵やその他の密教仏具が、座机や壁にかけられ、左右の壁際には僧侶が座るために、居間と同じ絨毯張りの座席がある。部屋の角には、灯油で朝夕2度ともす灯明のための煙突付きの灯明箱が置かれている。

さて、トイレだが、1階貯蔵室部分は先ほど説明した通り、そして、この3階部分が実際私たちが使う場所だ。現在貯蔵中の部分の真上に当たるところに、長方形の穴が開いており、ここから糞尿を1階に落とす。この穴の横の壁際には、大量の細かい粘土質の土とスコップが置かれており、一般的には、そのあたりに用を足し、それをスコップを使って土で丸めて下に落とす。穴にまたがるのは、風が下から吹き上げることが多いため、避けるべきと思った。ちなみに、ラダックではトイレットペーパーは使わない。使う場合は、インド国内と同じで、使った紙は下に落とさないで、ゴミとして扱い、後に焼却する。

3階の2棟の部屋の屋上は、はしごで登るようになっており、アルファルファやアプリコットなどを天日干しする場所だ。非常用の電源である太陽電池パネルも設置されている。


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Figure 39:屋上部;アルファルファが仮干ししてある   

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Figure 40:家畜用の囲い

地上部には1階の家畜部屋に連結して、成牛用の囲いがあり、5頭の牛がそこで飼われている。搾乳はその囲いから雌牛を1頭ずつ引き出して、中庭で行う。搾った牛乳は2階の食料貯蔵室のミルク桶に入れる。その一部からバターを採る。昔はバター作り用の桶に紐で回転させる攪拌機をいれ、それを手で引いて回転させて牛乳を攪拌してバターを作っていたそうだが、今では電動モーター付きの攪拌機で行う。アマレの仕事はスイッチをいれることと、たまに出来具合を調べることだけ。二十世紀における家事労働の近代化の中で、女性の家事労働からの開放という点では洗濯機が果たした役割が一番大きいということだが、ラダックではこの電動攪拌機がアマレたちを家事から一部開放したのではないかと思う。

電気ガス灯油など燃料

電気は今ではどの家にも来ており、毎日数時間の停電時間はあるが、基本的には毎日使える。電気器具も色々入ってきている。電灯は各部屋にあり、居間にはテレビもある。衛星放送が入り、NHKワールドも視聴できた。バター作り用の牛乳攪拌機も電動だ。ゲスト用に洗濯機も電気湯沸しポットもある。屋上には小型の太陽光発電パネルがあり、非常用の電灯につながっている。停電が頻繁に起こるので、これは貴重である。
調理はプロパンガスのコンロで行い、昔からの竈は使っていない。チャパティなどを焼くときやチャン(大麦のどぶろく)を作るため大麦を炊く場合は、圧力ポンプ付きの灯油コンロを使う。灯油コンロのほうが火力が強く、かつ燃料が廉価な為だ。また灯油コンロはどこにでも持ち歩けるという利点もある。ヤクや牛の糞を燃料にすることも、冬の暖房用を別にすると、野外だとか、香炉の火床にする以外、なくなってしまった。

樹木

家屋の中庭や敷地の端には、屋敷を取り囲むようにポプラの樹が、また、用水路の脇には楊の木が多く植えられている。ポプラは、幹の直径が15~ 20センチ以上になった梢は、根元から2メートルほどの高さで伐採して、皮を剥ぎ乾燥させて保存する。これは柱や梁など重要な建築材料になる。古い大きな樹はどれも、2メートルほどの高さの幹から何本にも枝が別れ、各々が10メートルから15メートルほどの高さに真っ直ぐ育つ。景観も美しく、かつ利用価値も大変高くなる。会津の太田さんのご指摘によると、これは家畜にひこばえを食べられないためにするかららしい。ヨーロッパでも同じような例があるとのことだ。そこで思い出したのは、北山杉もひこばえを伸ばすためにある高さで切ることが行われていたことだ。数年前に見たことがある。

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Figure 42: 水路に沿ったポプラと楊

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Figure 43: 楊の林


 
楊も同じように根元から2メートル程で枝分かれさせ、一本の幹から数十本の枝が育つようにしてある。楊の枝は直径2センチ位のものを天井を葺くのに使う。切り取った枝のまだ青い葉は、家畜に与えることもあるが、乾燥した落ち葉は、ポプラの落ち葉と一緒に堆肥に入れる。宇都宮(宇都宮 1970)に長野での楊栽培の話が出ている。やはり、小枝を数十本生えさせて、春と秋に刈り取り、行李や籠や家具細工用に出荷するとある。



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Figure 44: 楊の小枝の天井 

果樹の類では、アプリコットと林檎の木が多く植えられている。石垣で囲った果樹園から、用水路脇、谷の斜面など、色々なところに植えられている。もう一つ重要な木はシーバックソーン(sea buckthorn)だ。
 
小粒の実は集めてツェタルルというジュースにする。1~2メートルほどの樹高の茂みになり、バラの棘よりも長く鋭い棘がたくさん生える。この棘のため、畑の畦や果樹園の周りの塀代りに植えられており、家畜類も避ける危険な柵となっている。

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Figure 45: シーバックソーンの花 

天水が期待できないラダックでは、これらの樹木は、シーバックソーンを除いて、どれも水利の良い場に植わっている。



雨が極端に少ないラダック(年間降水量150ミリほど)では、昔は水が不足すると、雨乞いのお祈りではなく、カンカンと照る太陽を求めるお祭りをしたそうだ(Rizvi 1996)。というのも、氷河が主要な水源で、太陽熱で氷河の溶ける速度が早まると、水量が増えるからだ。夏の雨は、逆に歓迎されない。刈り取り作業が多い夏は、雨が降ると、刈り取る作物や草類が濡れ、刈り取りにくくなる上、担ぐ荷重が増えるからだ。また、乾燥にも時間をとられることになるので、雨は嫌われる。また、ラダックの土壌は灌漑されている部分を除いて、非常に乾燥している。そこに、雨が降ると、表土だけ濡れて滑りやすくなる。人や車が滑るのは勿論だが、土砂災害も起こりやすくなる。

インダス川沿いでは、農業用水は川からポンプで揚水することも行われているが、リキルではすべて氷河からの水が頼りだ。上リキルで用水路に取り入れられた水が、上―中―下と農業用や生活用に利用されながら、リキルをめぐる。水路沿いには、昔製粉用に使われた石造りの水車小屋(チュスカル)がまだ随所に残っている。主水路から様々に枝分かれして、水は畑の間を流れ、家々の間を流れ、リキル川に流れ込み、やがてインダス川に合流する。

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Figure 46: 水路と水車小屋


チャンダグ家のある下リキル左岸では、主水路からの水は半径10メートルほどの池に一旦貯められ、その一晩分の貯水量を日割りで各農家が農業用に利用する。この割当てはチュポンと呼ばれる集落の責任者が取り仕切っており、チャンダグ家は週に一度24時間の使用が認められている。その日は一日中アバレは給水のため、畑の間を跳び回ることになる。

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Figure 47:上リキルの用水路分岐点

水が豊富な上リキルと違い、下リキルでは飲料水は同じ農業用水路からの水だ。その中でも畑を潅水することが比較的少ない水路の水を、毎朝アバレが汲みに行く。ポリタンク二つに汲んできて、2階の水桶に入れる。これで一日分の炊事や飲料に使用する。洗濯や食器洗いは飲料水は使わない。

この飲料水は、我々外部から来たものは、そのままでは飲めない。馴れるまでは、飲むと確実にお腹を壊す。そのため、我々はセラミックフィルター付きの携帯浄水ポンプを持って行った。毎朝、ポンプで浄水して1リットル入りの水筒2本に詰めるのが、息子の日課になった。また、それに加えて、レーで調達したインド風緑茶葉をいれた水筒を、電気ポットで沸かしたお湯で満たして、飲んでいた。リキルの標高では、沸点が摂氏65度辺りなので、沸かしたからといって殺菌が完全ではない。LFLプログラムに参加した我々の仲間では、10人のうち2人がレーの病院に行かねばならないほど下痢と衰弱が悪化した。コメのスープがいいという話だったが、私の場合、抗生物質を数日飲み続けるのが一番効果的だった。息子のケースを後ほど紹介する。

チャンダグ家の中庭には、用水路からの水を受け取る水場がある。そこへの水は、隣家の果樹園から流れでて、路地を渡り、チャンダグ家の土塀の下から敷地の小さな窪地に流れ込む。窪地の底には鉛製のパイプが入っており、そこから窪地の水を吸い込む。そのパイプは、建物の脇の通路の横を通って中庭の水場の石組みの上から流れ落ちるように設定してある。このパイプの端にビニール製の1メートルほどのホースを付けてある。窪地から水場にはもうひとつ地表の溝を流れてくる水流がある。これは敷地内の樹木の給水と、中庭に出す仔牛など家畜類の給水のためのものだ。

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Figure 48:チャンダグ家に流れてくる水

この水場は、洗面、歯磨き、衣類の洗濯、食器洗い、野菜やアプリコットなどの水洗い、アプリコットの種洗いなどに使う。そのため、石鹸、歯磨き粉、食器洗い洗剤、洗濯洗剤、食器からの油や食べ物の残りなどがチャンダグ家から用水路に流れ出ていく。その内の一部は隣家まで流れて行っていると思う。それと同じことがチャンダグ家に流れてきている水でも言えると思う。

この水場には、夏の終わりには、週のうち2日か3日しか水は流れてこない。大きなドラム缶が四つあり、水量が豊富なときにそれらに満たしておいて、利用する。8月の初めに我々がチャンダグ家についた頃は、まだそれらは水で満たされていたが、ボウフラがたくさん泳いでいた。しかし、中旬をすぎる頃には、それさえ枯渇して、洗濯ができなくなることも数回あった。

水の使用に関しては、チャンダグ家では我々を含むゲストが水を大量に使用する。例えば、アマレはたまにしか衣類の洗濯をしない。衣類は3日か4日同じものを着ていることが多く、着替えてもそれをすぐ洗濯するということはなかった。それにひきかえ、私たちは3日一度くらいは洗濯をした。また、シャワーやお風呂はなく、体を毎日洗うようなことはしない。アバレは洗面の時に頭を濡れた手でゴシゴシ擦り、それで終わりだ。私も息子も坊主頭にしていたので、真似をした。私たち親子も結局レーに戻るまで4週間ほど一度も体を洗わなかったし、ヒゲも剃らなかった。日焼けもしていたお陰で、いつも日本人とラダキはそっくりだと言われていた。観光で訪れるゲストは、体を拭うためと思われるが、朝お湯を要求することが多いようだ。洗濯も含めると、ゲストの水使用量は家族の使用料をはるかに超えている。

アバレによると、水源である氷河が溶けて、小さくなりつつあること、ラダック山塊の冬の降雪量も減少していることなどが原因で、水の流量は年々減ってるということだった。

交通手段

リキルの村では自家用車を持っている農家は極めて少なく、ほとんどの村人はバスを使って移動する。
現在、村からラダックの中心のレーまでは、1日1便1往復のバスがある。片道2時間半ほどかかり、朝のバスでレーに行き、用を足した後、夕方のバスでリキルに戻る。アバレの子供の頃は、馬やロバに荷物を背負わせて、3日かけてレーに行き、1日滞在して、また3日かけてリキルに戻る1週間の旅程だったそうだ。

このバスは、下リキル発で、中リキル、そして上リキルと、まず村の中を一巡してから、国道に出て、レーに向かう。この村内一巡の間の利用は料金をとられないが、村を出て国道を走る部分はレーまで一人60ルピーだ。混んでいて、ずっとレーまで立ったままで乗ったときは50ルピーだった。まだ少年のような車掌は、屋根の上に乗っていると、移動中にもかかわらず、屋根まで料金を取りにやって来る。

バスは物流の重要な手段で、朝のバスには人だけでなく出荷する農産物も載せる。また、屋根には詰め替えが必要なプロパンガスボンベや灯油缶なども載せ、勿論、人も乗る。夕方の帰りのバスには、詰め替えが終わったプロパンガスボンベや灯油缶、村人が購入した物品等が屋根に載る。

面白いのは、ガスボンベや灯油缶を運ぶ場合、その家族が一緒にいくのではなく、車掌に詰替を依頼するのだ。レーに着くと燃料業者が待っていて、空のボンベや缶を受け取り、また夕方には詰め替えが終わったボンベや缶が、バスセンターに持って来られる。車掌はそれらをバスの屋根に載せてリキルまで持ち帰り、バス停で待っている注文した家族に渡す。燃料以外でも、出荷するエンドウ豆の袋から、小さな紙袋に入れた食べ物まで、委託される。車掌に委託するバスの運送業は結構繁盛している。料金はわからない。

週末のレー発のバスは、普段はレーに住んでいて週末だけ村に帰る人や買い出しの荷物なども加わり、大変に混雑する。出発の1時間前にバスに乗らないと、座席は確保できない。しかし、バスは行先表示がなく、また、バスセンター内での駐車位置が決まっていないため、私達のような旅行者には、自分の乗りたい行き先のバスを見つけるのは簡単ではない。運転手や車掌の顔を覚えておくか、バスのナンバープレートを記録しておくかして、自分の乗っていくバスを見つけなければならない。


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Figure 49: バスの屋根の乗客

村のバス以外に、レーとマナリ間、レーとスリナガル間など主要な村落や都市の間には、公営の長距離バスサービスがあり、途中の村々を結んでいる。これは座席指定の大型バスで、屋根に座ったり、屋根に荷物を載せたりはできない。しかも、料金は村から出るバスより高価だ。リキル村では停留所がNH1(国道一号線)に面した一ヵ所だけで、村の中までは入って来ない。そのため、村人はレーとの往復にはこれはあまり使わない。主に観光客と遠距離の旅に出る人が利用する。


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Figure 50:長距離バスの時刻表 

この長距離バスは、バスの一番前、運転手と車掌がいる部分が、ドアで客席と区切られている。実は、この車掌用の席に、車掌は乗客を載せることができる。しかし、この席は座席指定の席ではないため、乗車券は発行されない。車掌は少し安い料金で自分の客を数名ここに乗せる。つまり、ここは車掌と運転手の現金収入用の席なのだ。ここに座るには、直接車掌と話をする必要がある。しかし、車掌は制服を着ている訳でも、切符やお金を入れる鞄を持っているわけでもないので、バスの近くに行って、誰が車掌かを見分け、話をする。まだ空いていると、金額を言ってくれるが、もうふさがっていると、バスターミナルの切符売り場にいけと言われることになる。

タクシーは、多くが小型ジープや軽自動車のバンに、4人の乗客が掛けられるように座席を2列置いたものだ。ラダックは傾斜が大きく長い坂が多いため、インドの他の町のような三輪のタクシーはない。金銭的にはちょっと贅沢だが、数人で乗合で利用すると割安になる。リキルのゴンパ近くにタクシーが1台だけあり、普段は観光客用だが、緊急時には村人も利用する。出荷用のエンドウ豆の復路の準備に手間取り、バスに乗り遅れたのでタクシーを使ったという話を聞いた。豆を売っても元は取れなかったのではないかと思う。

レーの街には大量のタクシーがある。タクシーはメーターで料金を計算しないで、運転手との交渉で料金が決められる。自分の乗りたい区間の標準料金を、乗る前に知っておくことが必須だ。そうでないと、法外な料金をとられたことに後で気づいて悔しい思いをすることになる。レーのタクシー料金は、インド国内で一番高価だということだ(ISEC Workshop 2011)。

通信手段

ラダックでの主要な通信手段は携帯電話だ。固定電話もあるが、電気と同じで、回線が不通のことが多く、また、畑などに出ていることも多いため、携帯電話を誰もが持ち歩いている。チャンダグ家でも、固定電話の他、アバレもアマレも自分の携帯を持っていた。

私たち外国人は、インド政府の設けた制限のため、自分で持ってきた携帯電話の国際ローミングサービスを利用できない。地元専用の携帯電話を購入するしかないのだが、地元に知り合いなどがない場合は購入もままならない。お陰で、私たちは4週間ほど音信不通になっていた。

インターネットは、リキルでは利用できない。レーの町では多くのインターネットカフェがあり、頻繁に起こる停電時以外は、ごく気軽に利用できる。しかし、利用者はほとんどが外国人観光客だ。


病気

息子も私も普段は病気知らずで、薬のお世話になることも少ないのだが、今回の旅では、ペスト用の服用ワクチン、次に低地インドを旅するために、マラリアの予防薬を低地にいる間毎日とその前後の2週間飲むことになった。お陰で、どちらにもかからなかった。しかし、5週間のラダック滞在中、息子と私の体の調子はいつも順調というわけではなかった。

高山病

これは私が1週間ほど影響を受けた。頭痛と奇妙な酩酊感と吐き気。一番の薬は水で、大量な水を飲んだ。バス旅行中は飲料水の確保が難しかった。勿論、ペットボトル入りの水はどの休憩所でも購入が可能だが、廃棄するペットボトルのことを考えると、それは買えなかった。チャンダグ家では、ほとんど起こらなかった。

下痢

チャンダグ家に滞在して数日後から、それまで快調だった息子がひどい下痢に悩んだ。抗生物質を毎日服用したが、なかなか回復しなかった。飲料水はセラミックフィルターで濾過した水を飲んでいたが、お茶類は摂氏60度から70度辺りで沸騰したもので、不完全な煮沸が原因だったかも知れない。アルファルファの刈り入れなどの農作業も1日10時間を超え、疲労も蓄積し始めていたと思う。食べ物もアバレの作るマサラ味の野菜スープが中心で、タンパク質はミルクティーの牛乳とジョーという生ヨーグルトのみが供給源となっていた。果物も、アプリコットもりんごもまだ熟していなくて、食べられるものはない。そういうことが重なっての下痢だったかと思われる。

下痢が始まって2~3日して、息子にしては珍しく「作業が辛いので、寝ていたい」と言い出した。食欲がなく、アバレの料理は食べられなくなり、タギとミルクティだけ摂っている。果物が食べたいという。アマレに頼んで、米のスープ(ドゥラストゥク)を作ってもらう。おかゆと違って、本当にスープの中に米が沈んでいる。スープも重湯風ではなく、水っぽいスープだ。一口飲んで、息子は顔をしかめて、皿を横に押しやった。

脛をボリボリ掻きむしっているので、見てみると蕁麻疹だ。脛から腹にかけて結構出ている。それを見たアマレが心配して、レーの病院に行けという。風邪薬にアンチヒスタミンの成分が入っているのを思い出して、早速飲ませた。蕁麻疹は2~3日で治ったが、下痢は続いている。そこで私がやったのは、茶粥を作ることと、果物のジュースを手に入れることだった。

お茶はハーブが入ったインド風緑茶をレーで手に入れていたので、それでまずお茶を作り、そのお茶で米を煮て、おかゆを作った。しかし、沸点が低いため、普通の鍋では、長時間加熱しないと、米は煮えない。さらにおかゆ状にするには、時間がかかる。いつまでも米を煮ている私を、アマレは不思議そうに見ている。それでもなんとか柔らかくなり、塩味を付けた。変わった香りの茶粥だが、茶粥には違いない。それと、これもレーで買ってておいたカシミール産のゴーダチーズを数切れ、おかゆと一緒に息子に与えた。息子は気に入ったのか黙々と食べている。一安心。次はジュース。

レーの町では、瓶入りの果汁100%りんごジュースが手に入った。カシミールで作られて、瓶詰めにされたものだ。リキルでは、それも手に入らない。チャンダグ家でノノレに与えるジュースは、真っ赤な、人工着色料が鮮やかな、5%の果汁が入った甘い飲料だ。一口もらったが、あまりの毒々しさに閉口した。それ以外となると、川向こうの高校の前の雑貨・駄菓子屋にあるかどうか。また、そこまで行くとなると、谷を下りて川を渡り、向こう岸の崖を登り、高校の前まで歩くのだが、往復2時間弱かかる。アバレに断って時間をもらい、昼過ぎに出発した。

リキルでは、いつも二人で歩いているので、一人で歩くことが不思議な感じがする。川岸の崖の登りはかなりきつい。途中にチョルテンがあるのだが、そこで右繞することなど、普段は意識していなかったが、いつも息子が先にたって左に回っていたことが、思い出された。

崖を登り終えると、大きなチョルテンがあり、それを回ると、ゲストハウスが何軒も現れる。その1軒では、裏庭が広いポプラの林になっていて、そこでゲストはテントを張ってキャンプができるようになっている。そこでは生活体験ではなく、西欧風な林の中のキャンプ場での楽しいバーベキューなどが提供されるのだろう。

高校前には3軒の店がある。1軒は中にテーブルがあって、若者が数人座って何か飲んでいる。いわゆる田舎の飲み屋風だ。そこはちょっと敬遠する。その隣はイスラム商人らしい老人の店だ。中に入って、ジュースはあるかと英語で聞いたが、返事が理解出来ない。冷蔵庫があるので、それをのぞかせてもらう。コークや例の果汁5%の真っ赤な飲料はあるが、こちらの欲しいジュースはない。果物の缶詰を探すと、棚に何個か缶詰を見つけた。見せてもらったが、なんと魚の缶詰だった。諦めて、女性が店番をしている隣の店に行く。小さな店だが、店の前にテーブルを出していて、そこでお客が飲み物を飲んだり出来るようになっている。棚を物色すると、なんとライチーの果汁100%ジュースのパックがあった。6個あるのを、全部買った。網袋に入れると、結構な重さだ。果物の缶詰はなく、やはり魚の缶詰ばかりだった。缶詰の魚は、リキルでも食べる人が結構いるということか。

帰路を急ぐ。川を渡る所で、網袋毎川の流れにつけて、少し冷やす。川を渡ると、チャンダグ家の草場があり、牛達はまだいる。もう4時近くなので、少し早いが連れて帰ることにする。まだ早い時間なので、牛達は草場に散らばっている。チッチッと口を鳴らして牛達を集めて、坂道に追い立てる。後は牛任せ。

チャンダグ家に帰りついて、早速息子にジュースを飲ませる。「ライチージュースとは」と言って驚いている。インドでライチーが採れるのかどうか聞くのだが、私にはよく分からない。瞬く間に、一パックを飲み干す。気に入ったようだ。これなら、治るのは時間の問題だと思った。案の定、以後順調に回復した。


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