- | 次の10件

3 - 3 [リキル村での生活 ー ストゥーパ建立のお祭り]

ティングスモガン(Tingsmogang

昨年の洪水の後、被害を受けた村々では、村に残されたストゥーパやチョルテンを修復したり、新たに立て直したりすることが、ラダック仏教界の指導者たちの推奨のもと、大々的に行われている。チャンダグ家でも中庭のチョルテンを塗り直した。その中でも一番の事業が、リキルから更に西に三十キロほど行ったティングスモガン・ゴンパでのストゥーパの建立だった。それが完成し8月の最初の一週間がそれをお祝いするお祭りだった。レーのゴンパで見たリンポチェがそのお祭りで説教をするという。アバレは是非それに参加するので私達にも来ないかというのだ。二日目と三日目にリンポチェが説教をするので、二日目はアバレが、三日目はアマレが行く計画だ。アマレの実家の家族も三日目には来るとのことだった。私たちは一も二もなく了解した。

image054.jpg

Figure 53: ティングスモガン・ゴンパ

image055.jpg

 

Figure 54: 参詣人で一杯の建立されたストゥーパ

ティングスモガンは、1684年にここで結ばれた、仏教派とイスラム教派の間の境界を定め、チャンタンのパシュミン・ウールを独占的にカシミールに販売することを定めた条約によって有名な、歴史的な村だ。小さな谷に、ティングスモガンとカツァという二つものお寺がある。そのカツァ・ゴンパに、洪水の犠牲者の冥福と二度と今回のような災害が起こらないようお祈りするため、巨大なストゥーパが建立されたのだ。その新しいストゥーパを見て、リンポチェの説教を聞こうと、ラダック中から仏教徒の人びとが集まるという。踊りも音楽もなく、お説教が中心の行事だ。数少ない家族再会の機会でもある。

屋根上の旅

さてその朝は、上リキルのゴンパからバスが出るというので、六時半には朝食を済ませ、アマレが準備したタギとミルクティーのポットにメロンを2個を持って、川向こうの高校前のバス停まで歩いた。7時過ぎにそのゴンパ行きのバスは来るということで、乗り遅れないため、三人とも急ぎ足だ。バス停には、已に数人のストゥーパに行く人達がバスを待っていた。アバレが彼らに「これら二人は日本から来て我がチャンダグ家に滞在している。今日はゴンパに一緒に行く」と話している。彼らの話を傍で聞いていると、通りかかった人が「今日はリンポチェはお説教はしないよ、明日だよ」といっているらしい。突如議論が活発になったが、そこに、満員のバスがやってきた。ドアのところも立っている人で一杯だ。アバレがバスの屋根を指差す。屋根に乗れということらしい。早速、息子は嬉しそうにバスの後部に付いているはしごを登って行く。こんな経験は初めてだろう。続いて私とアバレ、それにバス停で待っていた人たちが屋根に登った。屋根には、荷物を置くための直径三センチ位のパイプでできた簀の子状の台が乗っている。我々はそのパイプの簀の子に腰を下ろす。平らな所が無いので、腰は落ち着かない。手でパイプを掴んで、体を支える。やがて、屋根まで満員になったバスは、ゆっくり動き出した。

 

まず、NH1の国道に出て、西に向かう。国道はトラックと軍用車両が結構移動している。舗装具合が良い部分と、去年の洪水のために今補修中の所が半々だ。舗装が良いとバスはスピードを上げる。朝日を浴びて、風も気持ちいい。しかし、補修中のところに来ると、バスはスピードを落とすが、大揺れになる。屋根の上の我々は、振り落とされまいと、パイプに必死に掴まることになる。それが、5分10分と続く。やっと舗装部分に着いて、バスもスピードを上げ、我々も手を休める。人びとは大声で話をしている。

アバレは話し好きのようだ。結構長く話しているし、冗談もよく言うらしく、人びとがよく笑う。トピックの一つは、今日の行事と仏教に関することらしく、モンジュシリとかリンポチェとかいう単語が聞こえる。その間にもバスは大揺れになったり、快調に進んだりしている。よく見ていると、人びとは大揺れの時に、我ら親子のように、必死でパイプに掴まっているという訳ではなさそうだ。結構手を離していろいろな身振りをしていて、まるで屋根に生えている草や木のように、衝撃にゆったりと反応しているようだ。私はと言うと、紐で括った岩といったところか。息子もそれに気がついているらしく、バスに逆らわないで揺れているようにみえる。

彼らの話がシャンク(狼)になった。最近どこかで見られたというようなことらしい。と、話し手の一人が急にインダス川への支流が作る小さな緑地を指さした。見ると、鹿の一種らしい動物が十数頭群れをなして草を食べている。野生の大型動物をラダックで初めて見た。揺れる屋根の上から十秒か二十秒しか観察できない。瞬く間にバスの土埃の中に消えてしまった。

ゴンパに集まる人びと

インダス川沿いの幾つもの集落を過ぎ、道は支流沿いの山道になった。ティングスモガンのゴンパまで来ると学校や尼僧院も現れる。更に十分ほど進むと歓迎の横断幕が道に渡してある。どうやら到着らしい。駐車場にはバスやジープが何十台も止まっている。横の道を人びとがゴンパを目指して登っていく。我々も屋根から降りて、二時間ぶりに足腰を伸ばす。人びとは大きな家族単位で参加してきているらしい。長い黒髪を三つ編みにしたアマレたちは、黒や海老茶色の伝統的な外套スカートに刺繍入りのチョッキが多い。若い女性は色とりどりのインド風の裾長の上着に肌にぴったりしたパンツと上着に合わせたショールで、とてもおしゃれだ。男たちはシャツに上着にズボンが多い。稀に海老茶色の伝統的な外套上着の人もいる。誰もが正装かそれに近いヨソイキでやって来ている。食器や調理用具、それに毛布などの寝具など、大きな荷物を持った家族も多い。長期に滞在するのだろう。そういう典型的なラダキに混じって、小さな帽子に野花を飾った一群の人たちを見た。ブロックパ(Brotkpa)=ダルド(Dard)と呼ばれる少数民族の人たちだ。元々はギルギットに住むチベット仏教の源の一つのボン教を信じる集団だったが、バルチスタンからラダック西部に住むようになり、チベット仏教の中でも古い伝統を色濃く残している集団だ。バルチスタン側の集団がイスラム化し、ラダック側に残る仏教徒のダルドは、ダー(Da)からハヌ(Hanu)一帯の数千人のみということだ(Rizvi 1996)。その彼らもこのストゥーパ建立のお祝いにやってきたものと思われる。

ゴンパの広い中庭には、既に多くの人達がぎっしりと座り込んでいる。そこから一段高くなったところにお堂がある。その周りを僧侶たちが囲むようにして座ってる。その左奥は大きな長いテントが張ってあり、インド政府やジャンムー・カシミール州の役人たち、外国からの来賓たちが座る貴賓席になっている。高さが十メートルほどの巨大なストゥーパはお堂の後ろに金色と白色に輝いている。ストゥーパの真下にある礼拝用の仏壇に、アバレに従ってお参りする。壇の上は人で一杯で、ストゥーパの周りに行くのも大変そうだ。

                                                                         

 

image056.jpg

Figure 55: 谷の木陰

ゴンパの横を流れる川筋の谷に下りる。緩やかな斜面が楊の木や草に覆われて、涼しい木陰になっている。そこに、長期滞在の人びとがテントを張り、休憩をしたり、炊事や食事をしたりしている。毛布や絨毯が積み上げられ、夜はそこで過ごしていると思われる。アバレに従って、あちこち歩きまわる。子供連れの若い女性の一団がアバレに声をかけてきた。アバレの次女だそうだ。子供は彼女の子で、アバレの孫だ。彼女は、ここから東に山ひとつ越した谷の農家に嫁いできたのだという。アバレは嬉しそうにしているが素っ気ない。  

今度は、「上の方に行ってみるか」と言って、川沿いの道を登っていく。急な斜面の道は崖の中腹の小さな祠に続いている。そこまで登ると、ゴンパと新しいストゥーパが真下に見える。その祠は、崖の岩を繰り抜いた修行用の祠で、中には、座って読経し瞑想するための席が囲ってある。僧たちは、ここに三年三ヶ月三日の間篭って修行するのだという。

image057.jpg

Figure 56: 祠への道

  

image058.jpg

Figure 57:  二重の傘の中の太陽

祠を後にし、崖を下りながら、今日は太陽が二重に傘をかぶっていることに気づいた。この地上では真夏の暑さで、乾燥しきっているが、上空では湿度が高くなって、その水の粒子で虹がああいう形で現れているのだ。当然、数日するとその水分は雨などになって現れるはずだ。去年の集中豪雨のことを考える。しかし、暑い。アバレは、「谷の向こう側の崖際の道路がまだ陽があたってないから、そこで向かい側のゴンパの説教を聴こう」といって谷を越える。その途中で何人もの知り合いに出会い、その度に挨拶して、我々を紹介する。アバレは結構顔が広い。

崖下の日陰は、已に多くの人たちでふさがっている。更に登るが、日陰のところは少なくなる一方だ。少し広いところを見つけ、三人で座る。平らな石をお尻の下にし、崖に背中を持たせかけて座る。向かいのゴンパからは、スピーカーから説教の声が聞こえてくる。説教の合間も人びとはトイレに行ったり水を汲みに行ったりと様々に動いているのが分かる。伝統衣装をしっかり着込んだ女性の一団が薬缶を下げて歩いていく。ラダックの女性たちの歩き方はとても魅力的だ。重心をしっかり腰に乗せて、大股に、スタスタと一団で同じように歩いて行く。行進しているようだ。それにしても、お説教は、いちいち英語に訳しているらしく、ひどく単調で、長く、退屈だ。アバレはと見ると、眼を瞑っている。瞑想しているのか、居眠っているのか分からない。こちらはバスの疲れもあり、眠くなってきた。息子はすでに首が傾いている。

食事とチャンとバスに乗り遅れること

小一時間も休んだだろうか。アバレが起き上がって、「下の谷に行こう」という。陽は頭の真上に来ている。崖の下に日陰はもうない。とにかく暑い。お説教も終わったらしく、スピーカーは沈黙している。壇上の僧たちの数も減っている。谷に下りると、ゴンパに居た人びとも谷に下りてくる。谷の中では、これから昼食の接待が始まるところだ。

 

image059.jpg

Figure 58: 接待を受けに谷に降りてくる参詣者達

大鍋を据えて、接待役の人たちがマサラ味の野菜スープと炊いた米を振舞っている。十人ほどの行列ができ、人びとは皿を受け取ると、ご飯とスープを皿に載せてもらう。我々もアバレに従って、同じように並ぶ。お皿にたっぷり載せられた料理は美味しそうだ。でも、フォークもスプーンも見当たらない。アバレは林の中に座る場所を探しに行く。どこも、食事中の人たちで一杯だ。やっと見つけた場所で、胡座をかく。さて、食べるとするか。右手の指三本をうまく使って米と野菜スープを混ぜて塊にして、口に放り込む。アバレの料理より米がおいしい。持ってきたメロン二個の内、一個を切り分け、皆で食べる。カシミール産のメロンは、水分も多く、驚くほど甘い。米と野菜スープも一皿目はすぐ空になる。アバレは「お代りを取ってこいよと」いうが、先ほどの列は三倍くらいの長さになっている。ゴンパの方から更に多くの人達が下りてくる。

アバレと同じ年代の男達が声をかけてきて、アバレが横に座れと手招きすると、その中の一人の男は手提げ袋の中から小型のポリタンクに入ったチャンを示す。ティーカップも三・四個持っている。アバレはニンマリ。彼らが座り込んで、早速酒盛りだ。私も息子もお相伴をする。舌にピリピリする結構なアルコール分のチャンだ。生ぬるいのは、朝から袋に下げて持っていたかららしい。私は一杯でもう十分。息子も二杯目は断ったが、満更でもなさそうだ。アバレは我々のチビリチビリ飲む飲み方がおかしいといって、話の肴にしている。肴はなにもないが、酒盛りは続く。ポリタンクが空になるまで続けるようだ。今日の説教も終わったし、後は帰るだけだ。アバレ、ゆっくり飲んでください。

とは言っても、朝乗ってきたバスは午後三時に駐車場を出発する。それに乗って帰るのだから、適当に切り上げて欲しい。この林から駐車場まで二十~三十分はかかるだろうから、二時半には酒盛りはお開きにして欲しいのだが。

私の心配病が始まった。アバレは、大丈夫というように頷き返して、カップに残っているチャンを飲み干す。隣の男は、「ドンリ」と言いながら、すかさずチャンをアバレのカップに注ぐ。まるで日本の宴会だ。「ディグリ=いらない」と何度も言った挙句に、押し切られて、注がれたチャンを飲むしか無い。それがしきたりと言うかゲームと言うか。やっと二時半近くになって、アバレは腰を上げた。

駐車場に向かうのだが、お接待の会場の中は、アバレの知り合いだらけ。親類の人たちや軍隊時代の知り合いや友人たち。私達も握手をしたり、お辞儀をしたり、忙しい。アバレは挨拶だけでなく、議論までしている。バスに間に合うのだろうかという私の恐れは的中した。やっと到着した駐車場に、朝乗ってきたバスはいなかったのだ。

駐車場の端に私達を待たせて、アバレはあちこちの人たちと話をしている。次のリキル方面行きのバスを探しているのだ。なかなか見つからないらしく、あちらのバス、こちらのバスと聞いて回っている。その内、笑顔で戻ってきて、駐車場の端にいるバスを指さして、「あれで帰ろう」という。まだそんなに乗客は乗っていない。帰りは屋根ではなく、座席に座って帰れるかも知れない。でも、出発は二時間先の五時過ぎだらしい。二時間待たねばならない。アバレはその二時間で、谷を歩いて降りて、もう一つのゴンパ、ティングスモガン・ゴンパにお参りしに行こうという。バスはそのゴンパのすぐ下の通りに来るから、それに五時過ぎに乗れば良いというのだ。なるほど、そうすると、チャンの飲み過ぎでバスに乗り遅れた事にはならないで、時間を取って、もう一つのお寺参りをしたことになるね。アマレにも言い訳ができる。じゃあそうしようと三人は歩き出した。

道草

谷が二つに分かれ、学校や尼僧院のあるカツァ・ゴンパに行く谷と、大麦畑が美しく広がる大きな谷との合流点を見下ろす峰にゴンパはある。昔はお城だったということで、城の防御壁が、峰の稜線上に長々と谷の方に下りて行っている。南にはインダス川の川筋があり、インダス川沿いの戦略地点だったことが分かる。この大麦畑が美しい大きな谷の農家にアバレの次女が嫁いでいっている。その下の三女がゴンパ下の小学校で教えているのだという。アバレの馴染みの集落なのだ。それなら、寄らない方がおかしいかも知れない。

 

image060.jpg 

Figure 59: 娘の嫁いだ谷

 

image061.jpg

Figure 60: ゴンパに向かう

ゴンパにはお堂が二つあり、ひとつは仏壇と壁画に囲まれたものと、もうひとつは高さが五メートル以上ある観音様の立像のある建物だ。どちらも外に階段と回廊があって、その窓からはお堂の中を二階三階から見下ろせるようになっている。アバレは一つ一つの階を丁寧に回ってお参りしている。観音様は特にお顔を拝するには外からが良いらしく、参拝者たちの多くは外に行く。私たちはお堂の中で、下から立ってお顔を見上げる。白い体とお顔が階上の窓から入る外光で輝いて見える。立って歩く参拝者に中で、東アジア系の女性が一人、床に正座して合掌している。上を見上げて、観音様に合掌する姿は、なんとも美しい。正座していることが、いかに観音様を大切に思っているかが現れているようで、殊に好ましく見える。ラダックの人の中には、五体投地礼をしている人もある。正座して合掌するのと同等の敬意の表し方だ。

さて、五時近くなって、ゴンパを出た。皆は舗装道路を歩いて下りて行くが、我々は、人と牛だけが通れる斜面の狭い急坂を、アバレを先頭に駆け足で下る。アバレは本当にこの辺りに詳しいと見える。十分ほどで、麓まで着いてしまった。バスが通る麓の道で、バス停を見つけようと谷の上の方を見ると、カツァ・ゴンパから戻ってくる人たちが、三々五々歩いてくる。車も結構下りてくる。アバレはまた知り合いに会ったらしく、幼児連れの若い女性と話し込んでいる。更に、私達を手招きすると、女性の後に従って、どんどん道路を下りていく。バス停はまだ先なのかと思った我々も、アバレの後を追う。暫く行くと、道路際の白く塗った家の玄関に上がる木の階段の上に、あの女性が立っている。彼女の家らしい。アバレは階段の下で、上にあがれと言い、女性は上の方から、「ミルクティーがいいか、チャンがいいか」と聞いている。バスがもうすぐ来るのに、また道草かい?

アバレはもうチャンを飲む気で、上に上がっていくので、仕方なく我々も階段を登る。アバレはそこで持ってきたメロンを取り出して彼女に与えている。そうか、ここで最後の一個が消費されるというわけか。女性は我々を居間に招き入れ、結構はっきりした英語で、「すぐミルクティーを入れるし、バスはアバレが外を見てるので、来たら直ぐ分かる」という。居間は椅子やテーブルなどもなかなかモダンで、窓にはカーテンを掛けて、小じんまりと居心地よく作ってある。ラダックでも若者たちはこういう部屋を作っているんだと思った。伝統農家のチャンダグ家とは大変な違いだ。家族の写真なども額に入って壁に掛かっている。写真を見ると、旦那さんはインド軍の軍人らしい。そこに、先ほど見た息子らしい四~五歳くらいの子供が子犬を抱えて居間にやってきた。我々にその子犬を見せたいらしい。「ジュレー」と挨拶をすると、はにかんでいる。犬は居間の絨毯を齧ったり、自分の尾を追いかけたり、なかなか忙しい。ペットとして飼っているのだろうが、ラダックでは、まだ新しい習慣のようだ。リキルでは誰も犬を飼ってないし、野犬もいない。

出されたミルクティーは香りが良い。座っている椅子も座り心地がいい。そこで、チャンダグ家には椅子が無かったことに思い当たった。いつも床近くに胡座をかいているのだ。チャンダグ家での生活の目線は、調理にしろ、食事にしろ、胡座の位置だ。

こちらは突如押しかけてきたお客で、こんなによく接待してもらう理由がなく、恐縮しているのだけれど、アバレの身内のように扱われている。女性はお茶を運んでくると、またどこかに行ってしまった。それにしても、アバレはどこでチャンを飲んでいるのか、居間には現れないし、我々も犬と子供が相手では話しもできない。息子は子犬を相手に遊びだした。お茶は済んだが、バスはまだ来ない。

アバレがやっと居間にやってきて、私は少し慌てた。アバレが見ていないとすると、バスが来るのは誰が見てるんだろう?あの女性?アバレの呑気さには驚いてしまう。ラダキ流?それともチャンのせい?今度のバスに乗り遅れたら、我々は多分ここに泊まるしかないんではないだろうか?アバレはお構いなく、「お茶は十分に飲んだか。もっと飲まないか」と、まるで自宅のように振る舞う。これがラダック流なのか。「バスはもう来るのではないか」と私が聞くと、「まだ大丈夫だけど、そろそろ外で待ったほうがいい」というので、お暇することになった。

水掛合戦

バス停はその家から二十メートルほど下った雑貨屋の前だった。アバレは「そこで待て」といって、またあの家の方に戻っていった。忘れ物でもしたのかな?

バス停といっても、なにか印があるわけではない。道路際には水路が豊かな水を流している。小さな堰が作ってあって、その向こうの畑に流れる細い用水路が分岐している。大麦はリキルより成長が早そうで、間もなく収穫期を迎えようとしている。用水路に沿って林檎の木が植わっている。リンゴの実も赤く色づいていて、この谷の収穫繁忙期がリキルより数週間早く訪れることが予想される。

雑貨屋に車に乗ったお客らしい中年の男性が来た。このお客は雑貨屋前の道路に車を止めて、店に入っていった。一車線しかない道で、車が道路に止められたら、道路はどうなるかは自明と思われるが、止めるにあたって、彼に何か考えがあったとはちょっと思えない。案の定、上から下りてきたジープが先に進めなくなり、警笛を鳴らす。ジープの後ろにはもう三台くらいの車が繋がっている。警笛は鳴り続けるが、お客は店から出てこない。さらに後続の車からも警笛が鳴らされ、バス停の周りは騒音が渦巻いているようだ。止めてある車にやってきて、動かせないかチェックする人もいる。

皆が十分に騒音を堪能したと思われる頃、店から車の所有者が現れた。悪びれる様子もなく、淡々と車を出す。しかし、向かう方向が谷の奥の方角だ。となると、車はすれ違わなくてはならないが、道幅はそれを簡単には許さない。ジープが少し後戻りをし、水路際に擦り寄って、やっとすれ違う。後続車も同じように水路際に寄せてすれ違う。マナリ・レー道路のバス旅行でも体験したが、狭い道を道幅一杯使ってすれ違っていく大型車両の運転手たちの技術と度胸と同じものが、この田舎道の運転手たちにも共有されている。感心していると、バスがやってきた。見ると、アバレが屋根に乗って、腕を振りながら、我々に「乗れ」と言っている。バスはすれ違いのため、徐行運転中だ。我々は、バスに駆け寄り、後ろに回ると、はしごに取り付いた。一息に屋根に駆け上ると、バスは速力を挙げて走りだした。ああ、また天井桟敷だ。

image062.jpg 

Figure 61: 帰りもまた屋根の上 

道路際に生えている楊の枝がバスの屋根直上に被さってくる。前の乗客が跳ね上げた枝に顔を叩かれないように、上体を低くし、腕で頭をかばう。枝は次から次へと被さってくる。避けるのに一所懸命になる。と、何本目かの枝を避け終わって体を起こした途端に、前に座っていた女性が大きく体を伏せた。その次の瞬間、私は頭から水浸しになっていた。バスの下の道路端から、バスの屋根めがけて、大量の水が掛けられたのだ。前の女性はそれを見て体を伏せたが、気が付かなかった私に水はまともにかかった。その次の瞬間、咄嗟に、私は上体を屈めた。その上を次の洗礼の水が飛んでいく。通り過ぎた道を振り返って見ると、バケツを持った中学生辺りの男の子たち数人が何かはやしたたてている。

実は、バスの屋根の前の部分には、中学生らしい五~六人の子供たちが座っていて、どうも、この集落の男の子たちと水掛合戦をやっいるのらしい。バスが次の男の子たちの集団に近づくと、バス上のグループは水の入ったペットボトルやコップなどに水を満たして、下を狙って、水を掛ける。下からは、大きなバケツまで持ちだして、バス上の子供たちを目掛けて、大量の水をぶっかける。子供同士の水の掛け合いだが、屋根に同乗している乗客はすべて子供たちの標的になっている。一番前に座る子供たちは巧みに直撃を避けるが、その後ろに座る我々は、直接我々を狙った水も、前のグループが避けた水も飛んでくるので、私は上体がずぶ濡れになってしまった。

ところが、このゲームはこの集落だけで起こったのではなかった。リキルに帰り着くまで、通過した殆どの集落でこれが起こった。子供たちは、半ば真剣に水の供給に取り組み、ほんの短時間の休憩の時も数人はバスを飛び降り、道路脇の用水路に飛び込んで水を汲んでいた。集落が近づくと、子供たちの年長者は、水を分配し、屋根の前だけでなく、後ろにも、中間部にも子供たちを配置していた。子供たちが大奮戦する間、周りの大人達やアバレも我々も結構楽しみながら、水を避けたり、バス上で子供達が移動するのを支えたりしている。こちらは集落を通過するたびに濡れネズミになるが、暑い夏の夕暮れ時、バスの上で風に晒されていると、濡れた服もすぐ乾く。

バスはインダス川沿いの舗装道路に出た。子供たちは一休みといった感じだ。ポケットやバッグからお菓子などを取り出して食べ始める。小さなプラスチック製の袋に入ったクラッカーやチップスの類だ。その中の女の子が、アバレになにか言いながら、そのお菓子の袋を差し出す。お菓子を勧め、我々が何者か聞いているらしい。そして、息子と私にもそのお菓子の袋を差し出す。見ると、日本でもよく見る油で揚げた味付きインスタントラーメンのお菓子だ。息子がひとつまみ食べると、笑っている。私もひとつまみする。「ジュレー」といって、袋を返す。アバレがいろいろ説明したらしく、女の子は「ザ チク(一ヵ月)」といって驚いている。我々の滞在期間のことらしい。小さな袋は瞬く間に空になり、その女の子はその空袋を少し風になびかせると、パッと手を離した。私は少し驚いたが、銀色と黄色のプラスチックの小片は、風に飛ばされて、インダス川の流れの方向に、バスのたてる砂埃の中に、瞬く間に消えていった。

チャンダグ家に帰りついたのは、とっぷり日が暮れてからだった。不機嫌そうなアマレが我々の帰りを待っていた。

アマレの番

さて、次の日はアマレの番だ。アマレは朝早くからツァンパを水で練って大きな団子を幾つも作っている。大きなタギもたくさん焼いている。大量の食料を準備するのは、アマレの実家の人たちとゴンパで会うからだ。服装もヨソイキの海老茶の外套ドレスを着て、なかなかの正装だ。やがて準備ができたらしく、大きな荷物を持ったアマレが七時のバスに乗るべく、出発となった。実家の親や兄弟姉妹との再会がとても楽しみな様子だ。

ゴンパで開かれるお祭りや今回のような催し物が、家族が再開する貴重な機会のようだ。この後で説明するが、農作業が家族再会の機会ではなくなりつつある中で、昨日カツァのお寺で見たような仏教を中心とする行事では、多くの人びとが、家族単位で参加している。アマレの実家のように、家族の集まりを、とても楽しみにしているらしい。しかし、チャンダグ家では、アバレの信心深さはよくわかるが、家族のまとまりに仏教が役割を果たしているかというと、それはもう働いていないようだ。

アバレは、「アマレは今晩帰ってくる」と言っていたが、その晩はアマレは帰って来ず、皿洗いは我々の役割になった。結局、アマレが帰ってきたのは、二日後だった。


3 - 4 [リキル村での生活 - 農作業]

農作業

アルファルファ

八月に入ると、まずアルファルファの刈り入れが始まる。花が咲き、一部で実が成り始めた一メートル前後のアルファルファを、根を残して刈り取る。春になるとこの根からまた芽が出る。刈り取ったアルファルファは数キログラムの束にする。それを三十キロから五十キロの塊にして、背負い紐で背負って家に持って帰り、屋上の外壁上に積み上げる。この時期どの家も、白や茶色の建物の屋上は、緑のアルファルファの肩飾りをつける。

image063.jpg

Figure : 背負い紐

 

image064.jpg

Figure : アルファルファを背負ってシーバックソーンの斜面を登る

背負い紐は三メートルほどの長さで二センチ幅の布で作った紐が二本、その一端が肩幅の長さで互いに結ばれている。その二つの結び目に曲げ木の輪が付けられている。信州ではそれと同じ曲げ木の輪で背負子の紐や馬の腹帯を締めるのに使うものをコザルというと草木ノートで宇都宮が書いている。(宇都宮 1970) 

背負うには、まず地面に背負い紐を、二本が肩幅で平行になるように伸ばして置く。この曲げ木の輪が両方の肩の上に来ることを想定し、そこを頂点して、その下の部分、つまり背中に当たる部分の二本の紐の上に、バランスが取れるようにアルファルファの束を、十束から十五束積み上げる。次に、両方の紐の端を草束を束ねるようにして、両肩の曲げ木の輪に通し、強く縛り上げる。草の束は、二本の紐で縛り上げられたわけだ。この時、草の重量が自分に扱える重さかどうか計り、必要ならば、束を加えたり、減らしたりする。次は、この縛った草束の上に、自分の肩が曲げ木の輪に触るようにして寝転がる。そして、草束を縛っている二本の紐に各々腕を通し、左右の曲げ木の輪から伸びている紐を各々しっかり絞り、背中に草の束が安定して乗るようにする。伸びている紐を、脇の下で腕が通っている紐に通し、そこで蝶結びを作る。こうすると、蝶結びは自分の肩の前に来ているので、その紐の端を引くと、簡単に結びが解け、背負っている草の束が下に落ちる仕掛けだ。こうして、仰向けで草の荷を背中に結びつけた後、上体を揺すって反動で体を起こす。そして、まず四つん這いになってから、立ち上がる。荷が重すぎると、自分の力では起き上がれなくなる。そんな時は、息子に手を引いてもらって、やっと起き上がる。

アルファルファは、牛の冬の飼料として極めて重要な作物だが、栽培場所が平坦な畑の場合はまずなく、果樹園の木の下だとか、畦だとか、棚田や谷の斜面部分だとかに植わっているため、刈り取りは簡単ではない。特に前述したシーバックソーンという棘だらけの植物(そのため耕地の境にわざと生えさせてある)と混生していることが多く、ゴム引きの作業手袋も、鋭い棘にはかなわない。

 

image065.jpg

Figure 38:アルファルファの刈り取りを行う川に面した崖  

image066.jpg

Figure 39:アルファルファを屋根に担ぎ上げる

チャンダグ家のアルファルファは、十日ほどかかって八月中旬にやっと刈り入れが終わった。その間、アバレと私たち親子の三人が中心で、二日ほどは近くに住むおばあさんたちが、また、八月十五日の独立記念日の休日には、長女の一家と末娘が手助けにやってきて、刈り入れた。このおばあさんたちにとって、これは貴重な現金収入となっているようだ。

でも、どう見ても七十歳を越してるおばあさんたちの作業の速さには頭が下がる。おしゃれな織柄の毛織のシャツとパンツとラダック風ベストに毛糸の帽子でやってきたおばあさんの一人は、背も真っ直ぐで、鼻筋も通り、青い目をしていて、全く白人系の様相だ。しかも、可愛い甲高い声で若い娘さんが歌うように話す。刈り取りの間もその可愛らしい声で刈り取り歌の旋律をハミングしながら、どんどん刈り取っていく。この歌は二重唱で歌うのが普通だということだ。

アルファルファは一日中刈り取りをしているわけではない。大人数で刈り取りをする日以外は、シュンマ(エンドウ豆)の収穫と出荷準備も日中や早朝に行われる。チャンダグ家のエンドウ豆畑は二ヵ所。豆は莢ごと摘み取り、五十キロほどをまとめて袋詰めにする。朝七時のバスで、アマレが近くの農家のアマレと一緒に数袋を携えてレーに行き、売ってくる。一袋六百ルピーが相場とのこと。

エンドウ豆

エンドウ豆摘みは、四~五日おきに三回ほど行う。雑草などと一緒に地面をはってる豆の株をたどりながら、株を裏返したり、からまった茎を解きほぐしたりしながら、太った莢だけを自分のバケツに溜めるのだが、アルファルファと同様、畑の周辺部は様々な雑草とエンドウ豆が混植しており、簡単にプチプチと摘み取ることはなかなかできない。アバレは、どっしりと座って、低い視点から見ると、どこに莢がたくさんあるか見ろというのだが、我々が見つける速度は、アバレたちとは格段に違う。これも近所のおばあさんたちと一緒になっての収穫となるが、彼女たちの手際の良さにはこちらは全く手も足も出ない。ここのエンドウ豆は生で食べると、とても甘くて、おいしい。アバレも収穫の合間に摘んでいる。

エンドウ豆は約50キロほどをジュートの袋に入れ、口を紐で縫って、出荷する。この袋は一本の紐で背中に背負う。要領はアルファルファと同じようだが、一本の紐だけで背中に安定して載せていくのはかなり難しい。七十歳を超えるおばあさんたちは、いともラクラクと背中に乗せて歩いて行く。

チュリ(アプリコット)

八月も半ばになるとチュリ(アプリコット)が色づき始める。アルファルファの刈り取りと組み合わせたりして収穫する。実には二種類あって、種の色が白く実も大ぶりの方はジューシーでほんのり甘く、生で食べるのに適している。これは丸ごと干して出荷する。もう一方のチュリは濃いオレンジ色で、実はジャムにするため、種を取って、干して出荷する。その黒い種は洗って乾かし、更に固い殻を割って中のアーモンドのような核を取り出し、やはり出荷する。アプリコットの木は果樹園にあったり、畦道に植わっていたり、谷の斜面にあったりするため、実の収穫も、簡単に済むところから、谷の斜面の藪を這い回ったりする場合など、様々だ。オレンジ色の実の場合、潰れたものも、種の核を出荷するので、拾い集めて持って帰る。持って帰った実から種を取り出すのはアマレの仕事だが、夕食前などの時間に、私たちも手を赤く染めて手伝う。

image067.jpg

Figure 40:収穫したチュリと背負い籠

水の供給

この時期はアバレにとって最も多忙な時期だ。アルファルファやエンドウ豆の収穫に加え、畑の大麦は穂の成長も早く、水の供給も微妙だ。週に一日の自分の畑の給水日は、一~二時間おきに、八畝の畑に数センチの高さの土盛で分けられた数十の給水区分に順に給水するため、枝分かれした小さな水路を、石や古裂や砂などで開閉し、更に、野菜畑、果樹園にも水を回す。水路に水漏れがあると、水は十分に畑に供給されない。水の無駄は許されない。注意深く水路を補修し、24時間の水流を確保する。

給水区分は形も広さも様々で、それを水でいっぱいにする時間も一定ではない。さらに、畑によっては、部分的に水はけの良い所と悪い所が混在し、それを均一化するために畑の中に溝が掘ってあったり、区分を変形させてあったりする。どの区分への給水が終わったかにより、どの取入口を開け、どこを閉じ、、、と、二十四時間の間、休みなく行う給水作業は、親から子供への口伝えや 身を持って覚えるしかない知識で成り立っている極めて重要な作業だ。チャンダグ家くらいの広さの耕地では、一年二年ではなかなかすべてを覚えられないのではないかと思う。

アバレは水路を開閉するとき使う長い柄のスコップをもって、ゴム長靴で走りまわっている。各家への水の配分はロンポやチュマンとよばれる集落の長老が集落全体の給水の手配をするが、その手配に基づいて各家のアバレが取水路を開いたり閉じたりして、実際の給水が行われる。しかし、水が十分でないことから、事故や手違いやこずるいことをする人がいたりしすると、深刻な水不足になる。給水は様々な問題を抱えている。今年はレーの一部で、あるチュマンが収賄をして給水に手心を加えたということが話題になっていた。チュマンの公平さに対してラダックの人々が伝統的に持つ信頼も、崩れつつあるということだろう。ここチャンダグ家でも、来るはずの水が来ないため、夜中にアバレが飛び出して行って、二時間ほどチャンダグ家への給水が延長されるというようなことも起こった。

         

大麦の収穫

前日

さて、八月の後半になると大麦の収穫の時期を迎える。給水も止めて乾燥させ、収穫に向けて、畑周りの除草も始まる。花が咲き終わり、綿毛を飛ばし始めた羊の好物の草(オル)は、刈り集めて冬の飼料にする。しかし、この草の茎にはある種の毒性があって、アバレは手袋をしろという。敏感な人は手袋をしていても赤く腫れることがある。私は半日で左手の指が親指から薬指まで、腫れてしまった。それに加えて、夕方までにはマメが左手のどの指にもできて、大麦の収穫中ずっと悩まされることになった。

image068.jpg

Figure:  畑周りの草(オル)を刈る

大麦畑の周囲の畦には、雑穀やアルファルファやオル、シーバックソーンやその他の雑草類が生えており、畦横の用水路にも雑草類が大量に生えている。それらを刈り取る。用水路はしばしば他人の畑との境界に流れている。そういう場合、用水路の此方側は刈り取るが、他人の畑側は手をつけない。石垣の雑草も刈り取るが、石垣の上の草と石垣の中に生えている草と石垣の下の畦に生えている草では、権利者が違うことがある。私達が知らずに他人の領域に入り込んだりすると、アバレは鋭く注意を促す。

午後からは、チャンダグ家の直ぐ下の家の当主が手伝いに来た。私と同じくらい髭を伸ばした同年代のおじさんだ。彼は、「日本人とラダキは同じような顔立ちだ」といって笑う。髭だけでなく、日焼け具合も同じようだ。お陰で草刈りの速度も上がる。アバレは牛のことをいろいろ尋ねている。というのも、先週からチャンダグ家にいる迷い牛(ゾーというヤクとの混血の雄の成牛だ。)の鼻輪の付け方を教えてもらっているらしい。このゾーは、ある嵐の夜にチャンダグ家に迷うこんできたのだが、なかなか言うことを聞かない困りものだからだ。鼻輪をつけると、言うことを聞くようになるらしい。しかし、ゾーを持っていても、春先の耕作時に使うのなら別だが、収穫時には何の役にも立たない。その証拠に、すでに一週間経つが、持ち主は現れない。そのゾーに鼻輪をつけようというのだ。その内、アバレは我々に「鼻輪をつけてみるから、彼と一緒に家に戻る。その間、草刈りを続けてくれ」といって、家に戻っていった。やれやれ、残りは我ら二人でというわけか。

チャンダグ家の八畝の畑の周りの除草にたっぷり一日が費やされた。

1日目

いよいよ大麦の収穫だ。その日は、朝まずチャンダグ家の仏間で、今年の収穫の成功を願うお祈りが執り行われる。今日はアバレと私たち親子の三人だけで刈り入れを始めるので、この三人が参加してのお祈りとなった。たくさん収穫できますようにとお祈りするのだが、この三人でどうやってあの八畝の畑の刈り取りをするのだろうかとひどく心配になる。そしてゾラと呼ばれる鎌を簡単に研いでから、三人で畑に向かった。

畑では給水区分が大まかな刈り取りの分担に利用される。その区分に従って三人が並んで、刈入れが始まった。アバレの指示に従って、腰を据えて、鎌を使い始める。ところが、私は和式便所でするように、腰を割ってかかとを地面につけて座る姿勢を取ることがどうしてもできない。その代わり、膝をついて、前かがみで、鎌を使うことにしたが、それも、とうとう二日目には膝の痛みに耐えかね、中腰で刈り取ることとなった。アバレがそれじゃあ疲れるよと言うんだが、この姿勢は私には合っていると見え、その後の四日間ずっとその姿勢で刈入れをした。

Figure:大麦の収穫

アバレはアルファルファ刈り取りの時と同じ歌をハミングしながら、快調な速度で刈入れをしていく。大麦は、ある程度均等な間隔で植わっている。株も大きくない。一株当たり、せいぜい数本から十本までだ。太い茎のものから細い茎のものまで、大きさも様々だ。区分の幅は一メートルから一メートル五十ほどで、右手の鎌で大きくしかも素早く麦の生え際を撫で切りにし、左手で刈り取られた麦を受け取るようにする。鎌の速度がある一定以上だと左手の方に刈り取った茎がうまく移動してくるが、遅いとバラバラになって、まとめるのにひどく手間取ることになる。力を込めて鎌を引くとき、思わず歯を食いしばってしまう。そして、左手で、送られてきた茎の束を掴むと、自分の後ろにポンと置く。それを三回繰り返すと、区分を右から左に一渡りすることになり、約三十センチほど前に進む。自分の後には三束が一山となった刈り取られた大麦が順に並んでいく。休憩の時には、顎まで疲れていた。

鎌の柄は木製で、端の方がフックのような形になっている。最初は、フックのように鎌を吊り下げるのに利用するためかと考えたが、さにあらず。地面すれすれに鎌を振るとき、柄を握っている右手の指の背が地面に擦れて怪我をしないためのガードの役を果たしているのだ。うまくできていると感心した。

 

image069.jpg 

Figure 43:ゾラという鎌                

image070.jpg

Figure 44:刈り取られた麦が綺麗に並ぶ

腰や膝の痛みに加え、真夏の直射日光が私たちの疲労を早める。五メートルほど進むと立ち上がり、汗を拭って、腰を叩いたり、鎌を研いだりして、小休止する。約一時間ほどするとアマレがお茶を持って現れる。やっと休憩だ。

畦の横の用水路で手や顔を洗い、頭を水浸しにすると、やっとホッとする。刈り手が車座になって、アマレのチャカンテ(バター茶)をフーフー吹きながら味わう。息を吹きかけるのは、お茶の表面に薄い膜を張っているバターを茶碗のヘリに寄せ、一度にバターが口に入ってしまうのを避けるためだ。この塩味のお茶は疲れを癒してくれるが、飲み過ぎると胸やけをおこす。

アバレは、「これが私のエネルギー源だ」と言いながら、チャンを飲む。そして、昔は刈り入れは十五人とか二十人でやったということ、その際には二チームに分かれて、掛け合いで歌を歌いながら刈り取ったこと、一日で一家の分を終えて、次の日には隣の家、その次の日にはその向こうと、一週間から十日で、集落すべてが刈入れを終えたことなどを教えてくれる。刈り入れの時二重唱で歌う歌は、「麦の粒は黄金の輝き、刈り取る鎌は山から流れる滝の水の速さ」というような歌詞なのだそうだ (Rizvi 1996)。ここ数年、雀の数が極端に減っていること、麦粒の大きさが小さくなっていること、そういう心配事も教えてくれた。

刈り入れをしていて私が気がついたことは、畑の土の中に見つかる色々なもの、例えば、金属製品のかけら、チューブに入った薬など、分解可能な有機物以外のもの。コンポストの中に混在していたのか、自然農法や有機農法だということがはばかられるような、ひどく心配なものもある。

農薬を使わないため、畑にはいろいろな虫がいる。アバレはそれらにほとんど無関心で、駆除をしない。虫もそうだが、雀もどんなにたくさん畑に群れて麦を食べても、今年は少ないなと言うくらいで、追い払わない。お陰で、虫も雀もお腹いっぱい麦を食べている。もしかすると、雀も虫も昔はもっとたくさん畑にいたのかも知れない。その昔をアバレは懐かしがって、今いる虫も雀も愛おしく思い、殺したり追い払ったりしないのかも知れない。

刈り入れの際の問題の一つは土埃だ。乾燥した大麦は土埃にまみれている。一日中その間を這い回っていると、鼻の中は真っ黒、口の中もざらざら。午後になると、乾燥した喉でも咳が出てくる。しかし、午後は風も吹き始め、影の部分が大きくなり、気温も下がり、午前ほどの苦痛はなくなる。西の山に陽が沈むのは、ちょうど午後七時。三人がその時分担していた区分が終わると、その日の刈入れも終了だ。しかし、第一日目は、最初の畑の三分の一ほどしか刈り取れなかった。

image074.jpg

Figure:難しい所を刈る 

2日目

私の膝は朝からガタガタ、ビリビリ。五分おきに立ち上がって休憩しなくてはならなくなっている。そのため、刈り入れ速度はガタ落ちで、見かねたアマレが鎌を持って加勢してくれた。息子の方はまださほどでもなさそうで、私よりずっと快調に刈りいれているようだ。お昼どきには、私は食欲もなくなっていた。でも、なんとか一番目の畑は終了し、二番目の畑に向かう。しかし、私の心配は膨らんでいく。この調子だと、つまりこの三人では全部終わるに一週間以上かかるんじゃあないだろうか。私の生産性は落ち込むばかりだし、息子もかなり疲れてきている。アバレだけではどうにもならないし、、、

刈り入れが終わった畑には、刈り取った大麦の束が乾燥のために畑の中央に集められている。その周りは大麦の株と藁が散乱し、その中には麦の穂も落ちている。アマレはそういう穂を几帳面に拾い集める。拾い終わると、そこに牛達を連れきて、藁や刈り残された畦沿いの雑草などを食べさせる。牛達は、鼻輪から一定の長さの紐で地面に打たれた杭に結ばれ、杭から円を描いて藁や草を食べる。しばしばその杭が抜けたり、円の中に刈り終わっていない畑の一部が入ったりする。すると、牛達は刈り取り前の大麦を食べてしまう。それが自分の畑の大麦だったりすると、アバレは真っ赤になって牛を怒鳴りつけ、紐を引いて移動させる。しかし、それが他人の畑だったりすると、アバレは笑っているだけで、手をつけない。雀には寛容でも、牛には厳しいアバレに私は笑ってしまう。

3日目

例のおばあさん達が二人加勢に来てくれ、五人での作業となり、かなりはかどった。でもまだ半分以上残っている。

image071.jpg 

Figure 45:おばあさんたちは作業が素早い       

その夜、アバレが明日からネパリが三人来ると教えてくれた。ネパリとは、ネパール人の季節労働者のことだ。彼らは現金収入を得るため、家族ごとネパールからやってきて、ラダックに短期滞在し、一日二百から三百ルピー(円換算で五百円くらい)という超低賃金で短期の農業労働をしたり、もう少し雇用が長期で、支払いが確実なBROと呼ばれる公共団体の雇用による軍用道路やNH1(レーとスリナガルを結ぶNational Highway 1つまり国道一号線)を始めとする主要舗装道路の建設や補修作業に参加し、削岩機の操作や発破作業、石工の作業などをしている。ネパリ以外、ビハーリといわれるビハール州からの季節労働者もラダックには多数いて、やはり建設労働などに携わっている。その他には、チベットからの難民がいる。レーでは難民が経営するチベット物産の土産物店が何軒もあるが、それ以外はチベット難民の存在は全く見えなく、実態は我々にはわからない。

ラダックでの低賃金労働や危険な建設労働は、多くの場合、州外からの季節労働者が中心を担っているということになる。彼らの労働生活環境はというと、低賃金、不安定雇用、事故による障害や死亡に対する無補償など劣悪な労働条件、ラダック住民用の低価格保障されたコメや小麦などの食料品が、ラダック住民ではないため購入できないことによる高い生活費、村では皆が手に入れられる水や電気など社会基盤の利用制限など、極めて厳しいものがある。道路脇のテントで暮らす彼らの生活は、その道路をバスなどで通るたびに観察する限り悲惨というしかない。事故や病気で死亡したり、家族が離散したり、生活そのものが成立しなくなり、ラダックから更に他の土地に流れたりする彼らの生活の実態も、最近少しづつ注目されるようになってきている(Demange 2009)

アバレは過去にもネパリを使ってるらしく、レーのネパリより隣村のサスポル(Saspol)にいるネパリが刈り入れには熟達していると話す。明日は彼らを三人雇って、二日くらいで刈入れをすべて終了させるというのだ。まだ四畝の畑が残っており、それを二日でやるというのは、なんとも途方もない速度で刈り取るということで、私は言葉もなく、アバレの笑顔とネパリについて楽観的に語っている彼の言葉にただうなずくだけだった。

4日目、

朝七時からネパリはやって来た。三十代のリーダーに二十代と十代の若者の三人に老人が一人。このネパリの老人は車の運転手で、朝作業をする畑までネパリ達を送ってきて、また夕方に刈り手達を迎えに来る。送迎バスの運転手のようだが、実はブローカーかブローカーに雇われた助手なのだ。ブローカーは、携帯電話がないネパリの刈り手達に代わって、仕事を取ってきて、それをネパリたちに斡旋し、仕事が決まれば、交通手段のないネパリの仕事場までの送迎をする。もしかすると、宿泊も面倒を見ているのかも知れない。その見返りにアバレが支払う一人当たり二百ルピーの中から斡旋料や送迎料を取る。だから、一日二百ルピーと言っても、ネパリが手にできるのはその内の何割かだけだ。

image072.jpg

Figure:やってきたネパリ達 

さて、鎌はアバレが準備し、早速刈り入れが始まった。十代の若者はまだ慣れていないらしく、三人の中では一番速度が遅いが、リーダーと二十代の若者のコンビは素晴らしい速度で刈り入れをしていく。アバレもその速度には追いつけない。その結果、一番早いネパリの二人組、アバレとネパリの若年者、そして我ら親子組という三つのグループが自然に出来上がり、進捗度の遅い親子組の作業を、先に完了したネパリ二人組が助けることで、全体が完成するという体制が出来上がった。更にこの日は、チャンダグ家の次女が子供連れで手助けに来てくれ、彼女が担当すると、食事やお茶の中身もぐんと良くなった。

休憩時にはネパリにもチャンが振舞われ、アバレは至極ご機嫌になり、色々ネパリに話しかけている。その隣で、アマレはアバレのほろ酔い具合を横目で心配そうに見ている。というのも、チャン好きのアバレは、たまに飲み過ぎて失敗をするからだ。先日も新たに建てられたストウパの建立記念のお祭りでティングスモガン・ゴンパに行き、そこで友人に振舞われたチャンの飲み過ぎで、リキルに戻るバスに乗り遅れるという失敗をしたばかりなのだ。午前中の二度のお休みとお昼休みで、チャンはとうとうなくなってしまった。アバレはそこは抜かりなく、その甘味で有名なインドのラムを一瓶買っておいてあって、午後はそれでエネルギー補給をしていた。

  

image073.jpg 

Figure 47:ネパリも一緒にお昼             

ネパリには、食事やお茶やチャンだけではなく、タバコもふんだんに振舞われる。チャンダグ家は誰も吸わないので、明らかにネパリ用にアマレが準備したものだ。ネパリたちは三人とも小休止のたびに一服していた。一日の作業が終わると、アマレが採り立ての野菜や小麦粉、お米などもネパリに渡していた。ボーナスというわけだ。

午後遅くになって、二人組の行商の絨毯売りが畑に現れた。頭の上に売り物の絨毯を幾重にも折ったものを高々と積み上げた青年たちは、大声で歌を歌いながら、畦道をやってくる。アバレもアマレも、ネパリたちも手を休めて、彼らの口上を聞く。彼らはラダキ(ラダック人)ではないし、レーからのムスリムでもない。アバレによるとバルティだという。西のカーギル方面からの商人らしい。

頭から下ろした絨毯は、生地の薄い化繊製の、模様もプリントされたものだった。彼らの相手をするのはアマレだ。触ったり裏返したり、ためつすがめつした後で、こんなもの、とんでもないとでも言うように、早口に畳み掛けると、行商たちも負けずとばかりに次の品を広げ、説明を始める。今度のものもアマレの気に入らないようだ。アマレと行商人のやり取りが続く。ネパリたちも間近にやってきて、興味有りげに、見ている。アマレが興味を示したのは、幅が50~60センチ、長さが2メートルほどの絨毯だった。アマレは、それを壁際の一段高くなった座席に敷こうと考えているようだ。あの席やそこに座る列・席順のことをDralということは、既に書いたが、そこは、いつもは私達親子が座るが、ゲストが泊まるときには、彼等もそこに座るし、孫のノノにいたっては、そこで食事をすることから、遊び、果てはお昼寝までそこでする。従って、席に敷いてある敷物も消耗が激しいのだ。アマレと行商の青年たちのやり取りが活発になる。ネパリも口を出したりして、交渉は15分以上にも及んだ。我々親子とアバレは、臨時の休憩とばかりに草の上に背中を伸ばす。

さて、行商人たちも去り、一番大きな畑が終わったところで日没となり、残りは三畝の畑となった。一番作業の遅い親子組だが、ネパリ達が刈りやすい所を譲ってくれたり、鎌を研いでくれたり、と結構仲良く作業をして、気持ちのいい一日だった。

5日目

三畝の畑が残っている。アバレによると今日刈り入れは完了させるというのだが、私はまだ信じられない。作業が始まると、アバレは昨日とは少し雰囲気が違う。盛んにネパリたちを叱咤する。昨日のチャンの酔いが残っているのか、アバレは今日は鎌をたまにしか持たず、主に刈り取った麦束の整理係だ。麦束は、穂の部分が隠れるように、重ねて畑の真ん中に正方形に広げられ、数日乾燥させる。

刈り取り係は今日は総勢五名。アバレが抜けたため、刈り取り速度はかなり落ちている。しかも、第零日を入れると、もう六日間も膝をついて鎌を使っている息子は、そろそろ体力も限界のようだ。私との速度の連携も無くなって、逆に私がネパリ達と息子の間のアバレの位置にいることが多くなった。でも、アバレの穴は簡単には埋められない。少しでもネパリたちに追いつくように、私は鎌の速度を早める。一振りごとに歯を食いしばる。少しでも無駄が少なくなるように、左手の支えも上からではなく、下から迎えにいくようにする。つまり、逆手から順手に切り替えた。そうすると、捕まえられる麦の束の大きさがずっと大きくなるのだ。

集中して刈り取りをし、腰の休養も頻度を減らす。そういう雰囲気はネパリたちにもすぐに伝わるらしく、次第に全員が気を合わせ、集中して刈り入れをするリズムが出来上がった。そして、比較的小さな畝を二つ、かなりな速度で気持よく完了させた。私もネパリたちもご機嫌で、チャンダグ家の末娘が作ってくれた蒸しパンのお昼ご飯を堪能した。

さて、お昼も過ぎたが、まだ最後の大きな畝が残っている。そこは大麦の成長が一番遅く、最後まで給水をしていたため、土が湿っており、そのため、大麦の茎が湿っているのだ。茎が湿っていると、我々の鎌では撫で斬りはできなくなり、少しずつ、力で切るしか無くなる。また、畑の中央には、茎が風のためいろいろな方向に倒れている部分もある。そんな部分は茎の方向に従って刈り取らねばならない。つまり、相当時間がかかりそうだ。皆でとりかかったが、やはり速度はかなり遅くなり、時刻もかなり遅くなってきている。アバレもアマレも今は鎌を持って一緒に刈り取りをしている。

残り三分の一となったあたりで、アマレがこのままでは今日完了できないかも知れないので、刈り取り時間の延長をしたいとネパリたちに言い出した。ネパリ達にとって労働時間の延長が増収になるのか減収になるのか、私にはよく話がわからなかったが、その後、ネパリ達が猛然と刈り取りを始めたので、延長なしで作業を終えようとしていることがわかった。

もう誰も口をきかず、ただ黙々と刈り取りを進めたのだった。その結果、日没にまだ少し時間がある七時少し前には、すべての麦が刈り取られたのだった。皆で最後に刈り取った一束を空に投げ上げ、完了を祝福した。


4 [問題点の考察]


さて、前章では、私が体験したことや知り得たことの中から、ラダックの現時点での生活環境や農作業などを記述してきた。この章では、そういう環境や農作業の記述に現れた個々の事象を、ラダック社会の変化の中で見直してみようと思う。というのも、それらの中に、ラダックの農村が曲がり角に来ていると思われる幾つかの兆候が明らかに見て取れるからだ。その考察の中から、次のような結論が導きだされると私は考えている。

  1. 21世紀にはいってのインド経済の急激な膨張による社会的変化の中で、ラダックの伝統的な農業は、急速にその持続性を失いつつある。
  2. それと同時に、ラダックの伝統的な文化や生活様式は、その支え手を失いつつあり、形骸化しつつある。
  3. ラダックの再生には農業の再生が必須であり、その実現に向けて早急に対策を講ずる必要がある。



背景

伝統的ラダック社会の位置づけ

ラダックはチベット文化圏の一部で、ヒマラヤの高地の中にある。地政学的に見ると、ユーラシア大陸を形作る東西に平行して走る二つの大山脈(北のテンシャン山脈、南のクンルン山脈)の裾野に点在する、中央アジア大乾燥地帯のオアシス群の一つといえる。

ラダック社会が一番安定的に、かつ長期間持続していたのは、実は、近代以前のことだ。パンジャブ・カシミールと、ヤルカンドやホータンなど中央アジアのオアシス都市群を、カラコルム山脈の東で繋ぐ、重要な交通路上にあり、かつ、チベットへの西からの入り口だった時代で、他の中央アジアの交易都市や地域と同じく、商業と農業と牧畜が主要産業だった。特徴点としては、カラコルム・ラダック・ザンスカール山塊を源として安定して供給される水を利用する安定的な小規模農業と、パシュミナ・ウールとチベット塩という地域に特定される交易商品の存在があったことだろう。そういう特異点を武器に、東に位置するチベットの仏教圏と西に位置するカシミールのイスラム圏の狭間にあって、相対的な文化的経済的独立を保っていたといっていい(Hedin 1909, Rizvi 1996、1999)。

そういう社会を支えたラダックの家庭がどういう形をしていたかというと、一番年上のアバレ(父親=長男)がシャンマと呼ばれたラダック商人として、パシュミナ・ウールとチベット塩に、地域産の大麦や小麦などの穀類、アプリコットなどを扱い、レーを中心に、西はカーギルから、東はチベット西部の交易中心地のガルトク、また北はヤルカンドやホータンとの間を移動する交易商人であったり、隊商のヤク・牛飼いであったりして、常に家庭の外から収入をもたらす役割を担い、アマレ(主婦)と年若い父親たち(弟たち)が中心になる拡大家族によって農業と牧畜を営み、地域的な共同作業システムで大きな労働力を確保し、自給自足経済が成り立っていた。こういうシャンマ=ラダック商人を送り出す家族は、集落の半数以上であったという(Rizvi 1999)。

しかし、20世紀に至って、ラダックは偶然にもインド・カシミールの一部になり、1950年代の終りには、中国によるチベットとアクサイ・チン占領により交通路の北と東が閉ざされ、農業が単独主要産業となる現在の形の土台が出来上がった。つまり、ラダックの長く続いた夢の時代、持続的な安定期は終焉を迎えたのである。それからの数十年は、経済的な没落、文化的な閉塞の中でラダックは生きてきたはずだが、その期間の記録は極めて稀で、私には実態がつかめない。

ラダックの発展と近代化

ラダックは、インドの独立以来、1974年にインド政府が外国人の立ち入りを許可しだすまでは、西チベットの秘境として国際社会から隔離状態にあった。中国のアクサイ・チンとチベットの占領により、1950年以降は東と北からの交易交流が不可能になったこと、パキスタンとの数度にわたる軍事紛争をへて、カシミールという西の重要な文化・産業・農業の中心地との交流が不安定になったことにより、ラダックは、インドにとっての軍事的な重要性以外、特別の意味を持たない一辺境の谷間になってしまった。1974年に国際的に扉が開かれたあと、そういう隔離状態から抜け出す近代化の原動力となってきたのが、駐留インド軍とヒマラヤ観光だ。

中国との国境、パキスタンとの紛争地帯を併せ持つラダックは、インドにとって重要な軍事拠点で、大量の軍事施設に多くの部隊を駐屯させている。そのため、ラダック地域の舗装道路網や橋梁は、インド軍により格段に充実されてきた。更に、駐留インド軍は、ラダックの人たちに電力、通信などの社会基盤と、雇用とサービス提供の機会を与えてきた。ラダックでは、昔から家族の中から一人は仏教寺院の僧侶になることが一般的だった。それが今では家族の中から一人はインド軍の軍人になることが普通となっている。家を出て、軍で働き、結婚し子供を作り、町に住んで、子供を町の学校に行かせるというのがラダックの男たちの夢になった。また、軍の売店や食堂などでは民間人も必要とされ、ラダックの女性たちも軍の施設での職を得ることができるようになり、結婚と雇用によって、彼女らも家を出て町に住むようになった。また、軍は大量の物資を消費する。その一部はラダックで調達される。例えば食料のなかの野菜。軍施設の近辺の農家には、食料の提供という現金収入の道がひらけた。

次は観光である。ラダックは、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間にあり、この大山岳地帯でのトレッキングやラフティングなど様々なレジャーを求めて、早くからヨーロッパからの観光客が訪れていた。レーの町を中心に提供される、彼らのための宿泊施設、飲食業、ガイドや観光サービス業などは、多くのラダック人に職を与えてきた。また、レー近郊の農家には、観光客用の野菜などの食料供給の機会も増えた。そしてここ十年は、急速に経済発展を続けるインドの中産階級が、観光客の中核となってラダックを訪れるようになってきた。ここ数年の観光客の増加率は、毎年百%を超えるようになり(ISEC Workshop 2011)、ホテルやゲストハウスは乱立し、レストランには観光客が溢れ、観光客を乗せて走るタクシーやジープが、レーの町の道路を占領し、わがもの顔で走りまわるのが、夏の観光シーズンの常態となっている。

これらが巨大な求心力となって、ラダックの近代化を押し進めている。しかし、社会基盤の充実、平均収入の増加や教育の普及、近代医療の導入による乳幼児死亡率の低下など肯定的な進歩もある反面、急激な変容を受ける社会内部に様々な不均衡や矛盾、不合理さなど蓄積される。現在、ラダックでは近代化を源泉とする問題点がいろいろな局面で露呈しだしている。それらはラダック社会の伝統的な構造の構成要素に大きな変化をもたらし、伝統的な農業や村落共同体の役割などは、存続が危ぶまれるほどになっている。明らかに、ラダックの社会や文化は、ある決定的な曲がり角に来つつあるのだ。

問題点

農家の家族構成の変化―農業労働力の減少

ラダックが外の世界と再び交流を始めて約40年になるが、その間に、村の農家の家族構成は、劇的に変化した。それは同居家族数に端的に現れている。チャンダグ家の現在の家族構成は50代のアバレとアマレの夫婦2人に孫が1人。つまり3人。これがアバレが子供だった40年前、つまりアバレのお父さんの時代には14~15人だったそうだ。ドルマというWomen’s Allianceの会長として市民運動をこの30年間続けてきた六十代の女性も、彼女の育った子供時代の同居家族数は16~17人だったと言っていた。家族数の変化を語る資料は他にもいろいろある。(Dame 2009, 佐藤健 1981, ISEC Workshop 2011)

こういう劇的な同居家族数減少の原因は幾つか考えられる。まず婚姻制度の変化がある。ラダック地方では世界でも数少ない一妻多夫制度がつい最近まで残っていた。この制度では、女性は嫁入りをするとその家族の男兄弟全てと婚姻関係に入る。これは、耕地の分割相続を避けるためと家族内に男性労働力を保持するためだ。しかし、この家族制は、1941年にラダックの仏教徒組織 Young Men's Buddhist Associationが禁止を提唱し、ジャンムー・カシミール州議会に法案を提出し、イスラム派の賛成を受けて法律が成立した。1990年代終わりまで、そこここで、行われていたようで、LBAラダック仏教徒団体の執拗な撲滅運動がその頃起こっている (Pirie 2009, Dawa 1999)。このため、次男以下の男兄弟は家に残らず、都市部に住むようになった。一妻多夫制度の下では、女性は結婚して他の農家のアマレになるか、尼寺に入るかして、実家には残らなかった。ただ、尼になると、農繁期には実家で農業をするのが普通だったようだ。

では、レーやカーギルでの50%を超える昨今の人口増加はどう説明するか。その答えは、核家族化だろう。都市部に移住した若者たちは、そこで結婚し、自分たちの家庭を持ち、子供を数人産んで育てているということだ。

次は女性の妊娠出産回数の減少である。一妻多夫制の崩壊がその大きな一因だが、Dott (Dott 1999)が観察したように、女性の識字率と出産数が反比例することは広く知られている。ラダックの女性も、この40年で就学率がほとんど零から少しづつ増加し、彼女たちが生む子供の数は、二桁から一桁に減少した。例えば、チャンダグ家のアバレのお父さんの兄弟数は11人だったそうだが、アバレ自身の兄弟数は6人、アバレの子供たちの数は四人と減り続けている。

次に考えられるのは経済的な要因である。インド政府はTribal Area(部族地域)と呼ばれるラダックのような地方を援助するためコメと小麦粉の低価格保障制度を導入した。その結果、ラダックでは主食が大麦からコメや小麦に代り、穀物の栽培は経済的に成り立たなくなり、農業による経済的自立は大打撃を受けた。更に急速に市場経済に取り込まれてしまった現在、収入の少ない農業だけで生活することはかなり困難になっている。

それを補うように、レーを中心とする都市部でのインド軍での雇用と観光による雇用の増大が、農村地域から都市部への人口の移動を促進させている。チャンダグ家の子供たちも、学校を卒業すると、村での農業生活を選ばず、都市部に出て、就職している。それを更に促進させているのが教育である。ラダックではここ10年、都市部を中心に、私立学校の増加と公立学校の減少という現象が起きているという(ISEC Workshop 2011)。都市部では親たちは子供を少しでも進学率や就職率、十年生の試験(義務教育終了時の試験)の合格率の良い私立学校に入学させようとするため、公立学校は生徒数が減少し、季節労働者など貧困層の子供たちばかりになってしまっており、生徒数の減少した都市部の公立学校は次第に閉鎖されているのだ。
こうした複合的理由による農家の同居家族数の減少は、日本で私たちが経験してきたことと全く同じだと言える。その結果、今ラダックの農村では就労人口の減少と老齢化、季節労働者への依存度の増加、耕作放棄地の増加、伝統的耕作方法の放棄と、これまた私たちが日本で経験してきたことと同じような問題を抱え込むことになっている。

村落共同体の形骸化

村には、役場も、警察も、郵便局もない。集落の問題などを話しあうユルパという全住民会議と、輪番で勤めるゴバと呼ばれる村代表や、ロンポと呼ばれる王国時代の貴族の末裔やチュポンと呼ばれる給水責任者など、家長達、長老達が、長年、村落共同体を統括してきた。昔は、そういう自治組織の中に、村にある仏教寺院の代表も加わっていたということだ(Pirie 2009, Loram 2004)。

近年に至って、レーの地方政府(Ladakh Autonomous Hill Development Council; LAHDC)や、ジャンムー・カシミール州政府などの行政機関が、村落レベルの行政を、サルパンチ(SarPanch)という村ごとに選出される議員(Panchayatという教育、開発、公共健康衛生などの分野に関わる代表制度)によって、執行している。村ごとに違いはあるが、現在でも、水の配分に関しては、原則としてチュポンが割り当てを行い、他の集落内の問題は、ゴバが取りまとめて、ユルパで話し合うようだ。チャンダグ家のアバレも、我々の滞在中、何度かそういう会議に参加していた。

しかし、このような村落共同体に残る伝統的な自治構造も、次第に力を失いつつある。その背後には、パンチャヤット(Panchayat)の影響力の増大がある。中央政府や州政府、さらにLAHDCなどからの予算配分やプログラム実施など、村の近代化に関わる部分は、すべてこのパンチャヤットを通して実施される。人もお金もそこに集中してくる。それに反比例するように、古来からの自治組織の代表であるゴバやチュポン達の影響力は、徐々に失われつつあるようだ。今年は、レー近郊の集落で、給水に関してチュマンがホテルから収賄する事件が起き、大きな話題になっていた。彼らのモラルも大きく低下しつつあるようだ。

農業に目を向けると、農作業の中での共同体の役割は、大幅に減少した。収穫のところでも触れたが、昔は収穫は家族や集落のメンバーが集まって、大人数で行っていた。掛け合いの二重唱のなか、一日から二日で一家分を完了し、一週間から十日で、集落全部の収穫を終了させるというその方法は、ランデ(glang sde)という共同作業システムがそれを支えていた(Herdick 1999, Loram 2004)。

チャンパの人々による塩水湖からの塩の収穫では、未だにこのランデと同じようなシステムが動いているという報告がある(Ahmed 1999)。それによると、一旦は途絶えていた塩水湖ツォカル(Tso Kar)からの塩の収穫は、近年、古来からの地元の塩の品質の再確認と需要の増加によって、再開されたという。集落の各戸(khangba)から、男と塩袋、塩を運搬する羊を提供し、塩水湖までの収穫の旅を毎年秋に行うとのことだ。全員をchu lagと呼ぶ4グループに分け、塩水湖の収穫領域を4等分して、各グループに割り当てる。各グループに選ばれた長、チュポン(chu dpon)、のもと、採集と袋詰め、荷造りから運搬を行う。ゴンパなどへの運上塩を除いた全量を参加者全員で均等に分配する。人や羊など、各家で供出できる数が違っても、配分される塩の量は全員同じだという。

農作業の場合、その労働力不足と老齢化のため、今では、ランデがほとんど機能しなくなっており、家族中心で収穫を行う場合でも、それが可能な農家の数が減ってしまっている。都市部に住んでいる子供たちは、なかなかそういう機会に戻ってこれず、老齢化の進んだ集落のメンバーは、日雇い労働で現金収入になる場合以外は、昔のように隣家の収穫には、なかなか参加しない。そうなると、ネパール人などの季節労働者に頼らざるを得ず、となると、私たち親子が体験したように、歌もなければ収穫祭もない収穫ということになる。

また、牧畜が盛んだった頃は、夏の間、ヤクや牛、羊を村の上流にある夏の放牧地(プーと言う)に村中の家畜を移動させて蓄養したのだが、その際にも、様々な作業がランデをベースに行われたという(Loram 2004)。リキルの場合、今年は1軒の農家もプーに行って家畜を放牧することはなく、8月中旬に我々がプーまでハイキングに行ったが、プーは空っぽだった。当然集落ごとで差はあると思われるが、どのようにしてこのランデシステムが壊れていったのか、あるいは壊れつつあるのか、興味のあるところだ。

リキルの村では、下リキルは比較的裕福で、上リキルは比較的貧困という考え方が昔からあったようだ。耕地のあり方も、下リキルは比較的広く、上リキルは狭い耕作地が傾斜地に多いという違いがある。標高も上のほうが数十メトルは高いと思われる。しかし、私や私の仲間たちが今年の大麦収穫での経験を持ち寄ってみると、下リキルではネパリや我々など外部の労働者中心に収穫を行うが、上リキルでは家族中心に行われるケースが多いということに気が付いた。比較的裕福な場合、拡散した家族を呼び集めるより、お金で季節労働者を雇ったほうが簡単に作業が終えられるからなのだろうか。

ちなみに、チャンダグ家では大麦畑の半分を収穫するのに3人のネパリを2日にわたって雇った。一人一日300ルピーとすると、食事も入れると一日1000ルピー、二日で2000ルピーほどの出費となる。もし、収穫全部を彼らに依存すると、4000ルピーの出費だ。農家によっては、こういう出費が許されないところもあると思われる。例えば、後でもう少し説明するが、ペプシ社のじゃがいも契約栽培のテストケーススタディーが実施されたイゴーの村(254軒の農家があり、人口は1163人、2008年現在)では、45軒の農家(21%)がペプシ社のじゃがいも契約栽培に参加し、平均収入月額が3000ルピーを超える農家は、野菜を売って現金収入を得ており、それに該当する農家は二軒を除いてすべてペプシ社のじゃがいも契約栽培に参加したということだ。(Dame 2009) このデータでは平均月収が3000ルピーを超える農家は最大で45軒-21%ということになる。とすると、ネパリ達に3000から4000ルピー支払える農家は上位20%に入る比較的裕福な農家だと言える。農家の経済力の差も共同体の変遷と関係があるようだ。

大麦収穫という村での最大の農作業は、共同体として行っていた祝祭的なものが、今では家族単位で行われ、家族が十分な労働力を提供できないとすると、季節労働者を雇って実施する、単に短期間に完了させねばならない過酷な作業となってしまっているといっていい。

農業の変化と自然農法の衰退

栽培作物の変化

ラダックでは、昔は主食は大麦で、栽培も大麦中心。標高が3000メートルより低い所では、小麦も一部では栽培されて来た。しかし今は主食はお米と小麦である。それらはラダックで栽培されたものではない。というのも、インド政府の価格援助付きでラダック人に供給される品質は悪いが安い低地インド産の米と小麦のせいで、ラダックでは作ってもお金にならない。

栽培の中心である大麦は、近年になって開発されたラダックの気候や収穫方法を考慮した背の低い品種が主流だそうだ。収穫の後、自宅消費分を除いて市場に出荷するのだが、主食の変化で各家庭内の消費量が減り、その分市場での流通量が増え、競争が激化する傾向を考えると、長期的に見て、現金収入を安定的にもたらすのかどうか疑問である。
 

image075.jpg

Figure 62:レーのゲストハウスの野菜畑       

image076.jpg 

Figure 63:レーのじゃがいも畑

野菜は、えんどう豆以外、ラディッシュ、人参、玉葱などが伝統的に栽培されて来たが、近年、ほうれん草、カリフラワー、トマト、Capsicum、キャベツなど、多くの新しい野菜が栽培品目に加わった。それらの多くは自家消費用だが、レー近郊の農家の場合、レーのバザールに露店をだし、販売する場合もある。えんどう豆以外、種は自家調達せず、レーでカシミールからの種を扱うイスラム商人たちから購入している。

リキルでは、えんどう豆はレーなどの都市部に出荷する唯一の現金野菜だ。50キロ前後の袋一つで600ルピー。チャンダグ家ではシーズンに四袋か五袋ほどを出荷する。残りの野菜は自家消費用。あまり大きな現金収入にはならないようだ。そこで、今はバスを使って個人毎に出荷しているのだが、それをトラックを使っての共同出荷と共同販売(例えばインド軍への供給)にしようというような動きがあり、幾つかのインド政府の支援プログラム(たとえばSGLRYとかpanchiyat)とその実行を支えるNGOが活動を行っている(ISEC Workshop 2011)。流通部分はそれでかなり改善されるが、栽培品目はさらに消費動向に左右され、伝統的な作物は更に減ることが予想される。

ここ数年、東部ラダックではじゃがいもが大きな比重を占めだしている。というのは、2007年ころから、ペプシ社がじゃがいもの契約栽培を始めたからだ。ペプシ社のポテトチップなど馬鈴薯でんぷん製品の原料にするじゃがいもを栽培するのだが、種芋と農薬と肥料はペプシ社から提供される。東部の山岳地帯でも栽培可能で、徐々に栽培面積は拡大してるようだ。(Dame 2009)種芋の品質管理や施肥、防疫、収穫までペプシ社がノウハウを提供し、少なくなった家族人数でも耕作可能で、ある程度の現金収入が保証される契約制度はラダックの農家には魅力的で、増加傾向にあるということだ。

この契約制度の問題点は幾つか考えられる。用水を上流から下流まで多くの農家が共有するリキルのような水利システムでは、どこか中間地点で使用されたペプシ社の提供する化学肥料や農薬などが、その下流全てに影響を及ぼすことがまず第一の問題だ。次に、単一品種の大量栽培はリスク分散が困難で、天候不順や病気など、すべての栽培農家が同じように影響を受け、全員が同時に壊滅的被害を被ることが多々ある。第三に、すべての栽培農家が同一の販売先を持つことになるため、生産農家側が統一して価格交渉を行わない場合、価格破壊や低価格競争が起こる可能性は極めて高く、価格維持も含め、長期的な受益は様々な問題を抱えることになる。第四の問題は、農業資産と技術の依存である。ラダックの自前の種も肥料も技術も使わず、それらをすべて外部に依存することは、生産の形骸化をもたらす。これはもう少し長期的な追跡調査が必要だと思われる。

果樹

リキルでは、石垣で囲われた果樹園や、用水路の脇、川岸の崖の斜面などに、クシュ(りんご)とチュリ(アプリコット)が多く植えられている。ほとんどが、植えられてから長い年月を経たものばかりで、最近植樹されたものはほとんど見かけなかった。

りんごは片手にすっぽり入ってしまうくらいの小さな実が成る。これはほとんど自家消費用だ。アプリコットは、前に話したが、白とオレンジ色の二種類あり、オレンジ色の方は天日干しをしてジャム用に出荷され、カシミールの工場でジャムに加工される。ラダック産の作物の中で第一の産物だ。

しかし、手入れという点を観てみると、これは給水以外ほとんど何もしないと言っていい。肥料も与えねば、枝の剪定もなく、自然に実るものをあるだけいただくというやり方だ。収穫してからも、良いものを選別しないで、全部同じに扱う。すべて人手がかかるので、それを十分に提供できない農家では、当然品質や数量にそれが跳ね返る。

アバレに他の果樹の栽培可能性について尋ねたが、夏が短いから他のものはダメだという答えだった。ところが、レーでは、実が大きな林檎が成っている木を多く見かけたし、桜の木もあった。ラダックでの果樹栽培は、種類の増加だけでなく、栽培法や手入れの仕方など、まだ色々な可能性があるのではないかと思われる。

牧畜の衰退

リキルでは、どの家でも数頭の牛と数頭の山羊や羊や、少数のロバを飼っていた。上リキルの直ぐ上流のプーではヤクを十数頭飼っている家もあった。しかし、文献をあたると、伝統的なラダックの農家一軒の山羊や羊の数は20頭30頭にものぼるらしい。(Herdick 1999, Pirie 2009) リキル村から西に山道をとると、ヤンタン村がある。Herdickはこの村の経済状態を様々な観点から調査しているが(Herdick 1999)、10軒の農家で、羊が58頭、山羊が256頭、牛が68頭いると報告している。これらの家畜をプーに連れていき、面倒を見る役割が、村人二人に与えられている。共同管理をしているのだ。

とはいえ、チャンダグ家に20頭の山羊と羊がいたとしても、リキル村では、労働力不足で、とてもではないが面倒は見きれないだろうと思える。労働力の減少とともに、羊毛と肉という商品が主役の山羊・羊は飼わなくなってきているのではないか。10年以上前のデータであることや、リキルとヤンタンの歴史的地理的な違いの可能性も考えねばならないので、単純な比較はできないが、牛と違って、山羊や羊の牧畜は、明らかに衰退してきているといえるのではないかと思う。

牛に関しては、1990年代にジャージー種とラダックの伝統種の交配が進み、その交配種に因るミルクの増産が可能となった。その結果、都市近郊ではミルク、バター、チーズの生産も増加し、現金収入の中で大きな比重を持ているという。(darokhan 1999)  チャンダグ家でも、雌の成牛の一頭はジャージー種だった。しかし、リキルのどの農家もレーには乳製品は出荷しない。

労働力不足と商品化の困難さは、他の農製品と全く同じ問題を、牧畜も抱えていることを示す。しかし、牧畜の衰退は、ラダックの農業にとって、もうひとつ大事な意味がある。それは、土壌の問題だ。

土壌と農薬や肥料

ラダックでは、耕作地は川沿いの平坦地か、用水路からの水を効率的に広い面積の土地に供給しやすい平らな尾根部分の段々畑となる。川沿いの平坦地にしても、沖積平野と違って、上流からの有機物を含んだ堆積土ではなく、また、尾根部分の緩斜面の土壌は、有機物を全く含んでいない。従って、畑の土壌の有機物は、すべて人が運び込んだ堆肥からのものである。つまり、生産力豊かな土壌は、人間による継続的な施肥が不可欠である。ラダックの農業生産力を歴史的に支えてきたのが、各農家の建物の1階で作られていた人糞・家畜糞・落葉の堆肥である。今ラダックが直面している人口と家畜数の減少は、この堆肥の生産量に正比例している。

有機物を十分に含まない土壌は、乾燥するとまるでコンクリートのように固まる。チャンダグ家の畑を、収穫時に這い回ると、給水区分の境の土盛で、膝をいやというほど打つ経験を何度もする。その堅いことといったら、セメント並だ。しかし、問題はその硬さではなく、その生産性だ。チャンダグ家のアバレが言うような、土地の生産性の低下は、土壌の有機物の含有量が減少しているためだ。その原因は、1)家畜や人の減少に比例し、堆肥自体が十分に作られなくなったこと、2)人手と伝統知識の不足が、熟成した良質の堆肥の生産を難しくしていること、3)潅水が流水によるため、軽い有機物が流失しやすいこと、などがあげられるだろう。土壌問題は、深刻である。

ラダックでは1980年代から90年代にかけて、Women’s Alliance of Ladakh (WAL)という女性の市民団心となり、様々な生活改善運動が行われた。その一つが殺虫用農薬の使用をやめることだった。レーの女性たちを中心に始まった運動は、アマレたちの地道な説得活動を通じてラダック中に拡大し、農薬の使用はほとんど無くなったそうだ。WALの会長としてその運動の中心となったドルマさんは、冬の農閑期に皆で手分けしてラダックの農村地域に泊まりがけで説得に出かけたこと、三年ほどは収量も減少し、それを納得してもらうために、更に説得の旅に出たことなどを教えてくれた(ISEC Workshop 2011)。

今、チャンダグ家では農薬は使っていない。そのため、大麦畑は色々な虫でいっぱいだ。しかし、もしアバレがペプシ社のじゃがいも契約栽培を始めたら、虫たちはいなくなることだろう。そうでなくても、チャンダグ家の畑の土には堆肥や用水経由の様々な薬物や汚物、自然農法では避けたいようなものが現れている。しかし、人手不足で、毎日様々な作業に追われているアバレに、自然農法を維持するために更に時間をかけることは、殆ど不可能と言わざるを得ない。その結果が自然農法技術の放棄だ。例えば、人糞を使うコンポストは、もう都市近郊の農家では行われていないということだ。人糞の上に牛糞や羊糞、楊やポプラの落ち葉などを層状に積み重ねて一年熟成させるような知識や技術は、レー近郊農家にはもう伝わっていないとドルマおばさんは嘆いていた(ISEC Workshop 2011)。伝統文化に支えられた自然な農作業は今はもう実行不可能になりつつあるのだろう。

農業技術の変化

家庭内や共同体内の労働力が減少していくラダックでは農業の持続のためには、省力化は当然の選択である。リキルでは、脱穀と製粉は機械化され、伝統的な家畜を使う脱穀、水車を使う製粉は行われなくなっている。しかし、それ以外、特に畑での作業は未だに機械化されていない。

リキルの場合、急峻な坂道、狭い上に藪や木が生えている畦道、高低差の大きな畑、それらを取り囲むようにして用水路網があり、たとえ軽量で移動が容易な機械があったとしても、それを畑に持ち込み、畑と畑の間を移動させることは、多大な困難さを伴う。それを実現させるためには、圃場整備と用水路整備という巨額の投資を必要とする。耕作準備と給水、そして収穫という労働力が集中的に必要となる作業の機械化は、巨額の公共投資なくしては実現不可能だと思われる。

しかし一方で、単純な投資対効果の効率化から、コストの低い平地中心に投資は行われ、傾斜地の狭い耕作地は投資の対象から外れる可能性は非常に高く、その結果、対象から外れた耕地は、次第に耕作放棄地になっていくという事が起こり得る。結果的には、ラダックの中での格差が拡大されることになるに違いない。
ラダックの伝統的な農業用水については既に記述したが、その高度に発達した給水網が長期的に存在しているのは、偶然ではない。食料や労働力の外的依存性が低く、人口の変動の幅や、労働力の供給量や、食料の生産力などを基板にした内部的に安定したシステムが、高度な給水システムを要求し、持続させてきたのだ。

今、そういう給水システムの裏にあった社会基盤が変質し、少ない労働力で増加する需要をどのように満たしていくか、大変難しい問題が見て取れる。

慢性的な水不足に対応した効率的な水の利用を実現し、かつ給水に関する多大な労力を軽減するには、用水路網の再設計、水路や水の取り入れ口などの改良、土壌改良による吸水率の改善、などが必要で、これまた、巨額な投資が必要となる。しかし、このような巨大投資の可能性は極めて乏しく、たとえ実現しても格差の助長につながると思われる。

ラダックの場合、実際的な省力化は、より合理的な栽培技術の確立によりもたらされるのではないかと思われる。例えば、エンドウ豆は雑草と混植されると、収穫時の労働量が格段に多くなる。雑草、特に背が高い雑穀類と混植されると、エンドウ豆の鞘を見つけることは、非常に難しくなる。種の直播きをやめ、育苗と定植というプロセスにすれば、その後の除草も収穫も格段に楽になるはずだ。リキルではそういう改良に向けての努力は皆無と言ってもいいと思う。栽培技術の改良による省力化は色々なところで可能性があると感じた。

現金収入への依存と脱農業化

ラダックは長い間村落レベルで農業を基盤とした自給自足が可能な社会を保ってきた。しかし、近代化の果てに、村々の農家はその生活と生産体制を維持するためには現金収入に頼らねばならなくなっている。プロパンガスや灯油の購入費、電話や携帯電話などの通信費、子供たちの教育費、野菜の種の購入費、肥料の購入費、野菜を出荷する際の交通費、刈り取りなどの際のネパリなどの人件費、などなど。そういう費用を捻出するための一般的な方法はゲストハウスの運営だ。いなくなった家族の空き部屋をゲスト用に改造し、夏の間ヨーロッパからの観光客に提供する。これはリキルでは、高齢者のみの農家を除いて、ほとんどの農家が運営している。農家の中には10人20人が泊まれるほどの規模に拡大して、それが農業に代わる主要な夏の収入源になっているところもある。しかし、リキるなど農村の中のゲストハウスは、生活体験を求めるヨーロッパを中心とする観光客が主な顧客である。現在観光客の主力はインド国内から来る新興中産階級インド人たちで、彼らは農村での生活体験を望んでいない。そのため、一定量のヨーロッパからの観光客に対してゲストハウスは供給過剰に陥っており、そこからの収入は決して多くはない。

すでに述べたが、主食であるコメと小麦がインド政府の補助の対象となってるため、農業で収入を得ようとすると、需要の少ない大麦か、野菜、アプリコットなどの果樹に頼る以外ない。しかし、レー近郊の野菜農家を除いて、伝統的な栽培方法では労働力が不足して、現金のかかる季節労働者に頼るしか無いのが実情だ。都市部に出た家族が戻って農業をすることはかなり困難だと思われる。その結果起こることはある程度予測がつく。自然農法など手間のかかる農法は敬遠され、農薬や化学肥料を使う農業に変化していく。また、遠くにあったり手間のかかる耕作地は次第に放棄される傾向にある。そして、最終的には農業を諦めて都市部に移動していく。農業で生活していくことが難しくなっているからにほかならない。

昨年のレー地方での洪水と土砂災害の影響

昨年の8月5日、レー地方(東部ラダック)ではこの時期としては異常な集中豪雨に見舞われた。この豪雨は大規模な土砂災害と洪水をレーを始めとして、バスゴーやフィヤン、シェイ、カルなどの村々にもたらし、200名近い死者が出たうえ、集落の建物、耕作地、ポプラや楊の林などは濁流と土砂に押し流され、壊滅的な被害をもたらした。その結果としての農地の喪失は、農業を基盤としてきた村々の経済的根幹に大きな打撃を与えた。一年経った現在までに、ある程度の農地の復元は行われているのだが、人々の農業への復帰の速度は遅いと言われている。また、被害の大きさに比べて、遅すぎる公式の支援に復旧を諦めて、農地を放棄する人が増えていると聞いた(ISEC Workshop 2011)。では諦めた人達はどうしているかといえば、災害への援助や補償金をもらって、レーなど都市部に移住していくか、あるいは、それを資金に自宅をゲストハウスとして再建し、農業ではなく観光で生活を設計しなおそうとしているそうだ。つまり、今回の洪水は、その直接的な破壊力と、そこにもたらされた外部からの巨大な資金力で、古い農業中心の村の構造を農業以外で構築する新たな構造に移行する大きな後押しとなっている。インド政府や海外の援助機関からの資金投入は更に続くと言われている。復興に時間がかかれば、この傾向は更に拡大し、多くの脱農業者と耕作放棄地を増やしていくものと思われる。

自然環境の変化

アバレによると、リキルではここ数年良くないことが色々目につきだしたということだ。例えば、大麦畑にやってくるスズメの数が急激に減っていること。カラスと鷹がいなくなったこと、川岸の斜面のアプリコットの実を食べるマーモットたちの数も減っていることなどだ。それらが一体何を意味しているかアバレにも私にもわからない。しかし、それらリキルの生態系の変化は、ここで何か非常に重要なことが起こっていることを示唆している。専門家が徹底的な調査をすることが必要と思われる。

更に重要な環境変化は水に起こっている。地球温暖化はヒマラヤの降雪量を減らし、気温の上昇で氷河は後退する一方だ。各家の水の使用量の増加もそれに手を貸していると思われるが、結果的に、下リキルでは水不足が起こっている。夏の終わりに近くなると、チャンダグ家では食器洗いや衣類の洗濯は、週の半分はドラム缶に貯めた水で行うしかない。水が流れてこないからだ。週に一度の畑への給水も大変だ。24時間の間に満遍なくすべての畑や果樹園に給水するには、給水の順番や時間を工夫することが必要である。水が豊富ならば週一度でなく毎日数時間ずつ給水することも可能なはずだが。しかし、氷河という上限がもともとある給水タンクからの供給に対して、野放図にその資源を使ってきた今までの姿勢はもう破綻に近く、早急に改められねばならない。インド政府は人造氷河を作る計画などを持っているが、農業用だけでなく、インド軍や増加する観光客など急激に拡大しつつある消費側の要因も含め、水資源の効果的な配分を計画する必要性に迫られている。

カラコルムと大ヒマラヤの巨大な山塊に囲まれたインダス川の谷間であるラダックは、環境的には大きな瓶のようなものだ。外から入ってくるものを貯めこんで、溜まったものが一杯になると、インダス川という瓶の口から溢れ出させる。都市化・観光化の問題点である上下水道の完備、排水の処理、ゴミの処理、特にプラスチックの処理は難問で、それらの問題点は指摘され人々は色々議論しているが、実際的な解決法は何も提起されていまない。現在それらは単に溜まる一方になっている。リキルの村でもお菓子の袋やペットボトルなどプラスチックごみはそこら中に落ちている。道路から家々の中庭、水路の中、畑の中、至る所に見つけられる。いつそれらが瓶の口から溢れ出すか、それはもう時間の問題だと思う。

ラダック再生への道

ここまで、私達が体験したり学んだりしたことの中から、ラダックの現状について考察してきた。そこから見えてきたことは、ラダックの農村では、伝統的な農業も文化も変化と衰退の一途をたどっているということだ。では、多くの辺境の文化がたどったと同じように、このラダックの独特な文化も消え去り、観光地化した都市部のみが市場経済の繁栄を享受し、農村地域は貧困にあえぐ辺境地域として残っていくしか無いのだろうか?私はラダックの農村には、農業をその基軸とした場合、まだまだ活性化への希望はあると思う。それについて考えてみよう。

ラダックの地政学的な位置を考えた時、ラダックの持続可能な基幹産業として考えられるのは農業である。自給経済のみでなく、観光と軍隊という大きな消費市場がそれを支えることになるだろう。つまり、ラダックの農業はその再生に大きな可能性を持っている。しかし、農業の現状は、我々が見てきたように、極めて危機的だ。

まず、活性化のために解決すべき問題点として、市場経済の中で農業が有効な収入をもたらさないことが挙げられる。その理由を幾つか挙げてみると、まず、労働力が極端に不足していること、次に、小麦大麦では収入が少なく、他の商品としての作物が少ないこと、伝統品種にこだわっているため、ラダックという地方に適した新しい作物がまだ見つけられていないこと、生産から出荷、販売まで、すべて個人が行なっており、大きな市場がありながら、カシミールやラダック外の農業製品にくらべて、競争力が弱いこと、などがあげられる。

ラダックの農産物の種類は大変限られており、未だに伝統的なエンドウ豆などの野菜と限られた乳製品しかない。ヤク、牛、山羊からの酪製品は原乳、バターとチーズだが、ほとんどが自家用で、一部しか販売されていない。果樹はアプリコット以外では、りんごも作られているが、自家消費用の小粒の品種しかない。ぶどう、ウリ、メロン類は作られていないと聞く。蜂たちは集落ではたくさん飛んでいるのに養蜂は行われていない。ラダックの自然にあった作物や農産物はまだまだ色々ありそうだ。

ラダックの農業製品の市場では、酪農製品、果樹、野菜はほとんどがカシミール産で占められている。観光業界と駐留インド軍という巨大な市場のシェアーの拡大を図るために、個人ではなく集落単位で生産出荷組合を結成し、品質の一定した農産物を、安定して出荷するように変える必要がある。伝統的な自然農法を基礎に、更にそれを推し進めた有機農業を確立し、その上で野菜の品質の向上と種類の拡大により、カシミール産農産物との差別化を図った作物や産物を生産することが可能だろう。

次は農村における労働力不足の問題だ。伝統的な農業は大きな労働力を必要とする。それをそのまま維持することはほとど不可能といえる。生産に必要な労働量を、減らす必要があるだろう。まず考えられるのは省力化だ。小型トラクターや耕運機、刈り取り機などの小型農業機械による省力は、まだほんの一部で導入されたばかりだ。レーでも2011年になって導入が始まったときいた。地域ごとの最適な応用方法が見つかるまでは、様々な実験がされる必要があるだろう。購入補助や共同購入など制度的に考えるべきこともあると思う。

しかし、機械化だけが省力の方策ではない。伝統的な共同作業をモデルにした農作業の集団的集約化による個人労働量削減は、共同体的基板が何かを契機に再興されれば可能だろう。その契機は、災害だったり、宗教だったり、あるいは民族的危機意識だったり、いろいろ考えられる。もう一つの省力への方策は農業技術の改善だ。已にえんどう豆の収穫についてのべたように、栽培方法一つ挙げても、改良点はいくらでも有りそうだ。個人個人が改良に努力し、その結果を共有できれば、労働量削減や収量増加につながるだろう。


もう一点考えておきたいのは、ラダックの長く安定した時代に存在していた3つの経済基盤(農業、牧畜、交易)をベースとしてモデルだ。この交易を、中央アジア-チベット-カシミールという長距離交易ではなく、レーやカーギルなど、観光やインド軍と結びついたラダック都市部との短距離交易と考えると、古く存在したシステムを、現代的な意味で再稼働させることも可能ではないだろうか。地域自治や共同作業など、古くから存在したシステムも、このモデルでなら動かせるのではないだろうか。
   

image077.jpg 

Figure 64:カシミヤ商店の果物や野菜              

 image078.jpg

Figure 65:チーズを売るカシミヤ商人

このような課題を抱えながらも、ラダックの農業には希望があるという根拠を幾つか挙げてみよう。

第一はラダックの土壌が、有機物の欠如を除いて、極めて生産性に富んでいるということだ。今回の洪水の結果、堆積物を取り除いた土地での野菜などの生産は洪水前より良いという報告があるそうだ(ISEC Workshop 2011)。大麦の収穫量もヨーロッパの高収量地域と変わらないという資料もあるそうである(Loram 2004)。

第二はこの40年を農業で支えてきた現役世代がまだ10年ほどは働けるということだ。彼らはまだ自然農法
や伝統的な共同作業システムの知識や経験が豊富だ。

第三は今20代、30代の若い世代にラダックの現在と未来を真剣に考える人達が増えてきていることである。彼らの多くはデリーやチャンディガルなどで教育や就労の経験があり、様々なNPO/NGOの活動に参加していると聞いた。ガイドとして働いている若者との会話からも、彼らの真剣さが伺えた。ラダキ(ラダック人)としての民族意識、郷土意識、文化意識が高まっていることは、それらが急速に失われつつあることへの危機感の表れでもある。

第四は昨年の洪水も一役買っているが、インド政府や国際援助機関がラダック復興やラダック文化振興に多くのプログラムを作り、支援をしていることである(ISEC Workshop 2011)。

第五はインド軍の駐留や観光化、都市部の消費拡大はまだまだ続くと予想されることである。
農業の再生は、農村に住む家族を、そして共同体を再生させるだろう。この再生は、古いラダックの伝統の復活ではなく、新しいラダックの伝統の創成になると思う。

まとめ

さて、ラダックの農村が曲がり角に来ているという認識のもと、様々な要素を考察してきた。ここでは、それらの考察を簡単に整理してみたいと思う。

近代化という大きな潮流の中で、農業と牧畜を中心とした伝統的なラダック農村の自給中心経済は衰退し、完全に貨幣経済の中にある。今では、電気が各戸にひかれ、テレビが居間の主役になり、調理や暖房にプロパンガスを使い、電話や携帯電話で連絡をし合い、バスやタクシーで移動をする。家庭では、少子化が進み、収入を得るための若者たちの都市部への移動により、家族は今や少人数で、伝統的な農村生活は希薄化し、老齢化している。それと同時に村落共同体も、農業や牧畜では伝統的な役割を果たせなくなってしまった。

拡大家族と共同体を基礎とした共同作業システムによる労働力が支えてきたラダックの伝統的な農業は、少子化、老齢化や都市部への人口移動による家庭内労働力減少と共同体による共同作業システムの形骸化が主因となって、急速にその持続性を失いつつある。十分な労働力が確保できない今、労働力を外に求めネパールからの季節労働者でその労働力不足を埋めるか、少ない労働力で出来る範囲に縮小する結果、自然農法からの逸脱や形骸化をもたらしている。次第に耕作放棄地も増えている。ラダックの伝統的自然農業はまさに危機に陥っていると思う。

農業に替わって、ラダックで重要な社会的な役割を果たしているのが、駐留インド軍と観光業である。中国とパキスタンとの日常的な軍事的緊張は、ラダックの政治的軍事的不安定性を作り出しているが、それは同時にインド軍の恒久的駐留による経済的安定性をラダックにもたらしている。また、ラダックの地理的な特異性をセールスポイントとする観光業は、インドの驚異的な経済発展を反映し、都市部を中心として拡大する一方である。この二つの要素を抜きにしてラダックの現在も未来も語ることはできない。

こうしてみると、ラダックの抱える諸問題は、基本的に二つの側面があることがわかる。一つは、都市化によって取り残された農村地帯が抱える問題で、もう一つは少数民族の問題である。この小論では、主に農業に関して考察してきたが、この二つとも、世界中に幾つもの似た例を見ることができる、言ってみれば、現代社会の構造的な問題の噴出点だ。経済的なあるいは文化的な持続性が保てなくなり、死につつある社会の問題といってもいいと思う。

では、「Ancient Future」や「Economy of Happiness」などの映画や書物で語られている1974年以降に西欧人が見たラダックの持続可能な自然農業とは、何なのだろうか?彼らが見る以前に、もっと安定的に持続していた農村の姿があり、もうすでにそれは西欧流近代国家の成立の狭間の中で、窒息させられてしまっているのだ。とすると、映画や書物が描くラダックの持続的な自然農業とは、この安定していた時代の農業の成れの果て、残存物、突如訪れた閉塞的な状況の中での苦闘の結果といってもいいのではないだろうか。そして、現在、ラダックは更に変貌をとげ、農業自体が変化せざるを得ないところに立ち至っていると思われる。そこでは、今まであったものの持続が問われているのではなく、新たに持続可能な農業が作れるかどうか、ラダックでの農業の再生が問われているというべきだろう。それが、この夏我々がラダックで直面したことだと思うのだ。我々としては、再生に向けた動きの中で何か役割を担うべきであったと考えている。

この小論では、再生のための一つのラフスケッチを提示した。「新たなラダックの農業の可能性の追求」だ。それは、観光産業の興隆と駐留インド軍の購買力、更に、インド政府や国際支援団体がもたらす外的な支援などを有効に活用し、伝統的な自然農法を更に推し進めた有機農業を基礎にした野菜の品質の向上と種類の拡大により、カシミールからの農産物を凌ぐ農産物を生産し、インド政府の地域振興プログラムPancheyatなどで話し合われているという出荷協同組合による共同出荷によって運搬コストや品質向上を図るというものである。それの中核的担い手は、ラダックの産業的文化的な後退に危機感を抱いている若者たちと、まだ10年は現役で農作業ができる現在の農村の経験豊かなアバレやアマレたちだ。彼らとWomen’s Allianceなど地域運動の指導者たちが一緒になって、「新たなラダックの農業の可能性の追求」の中長期計画をたて、融資を受ければ、その実現は可能ではないかと思われる。もう一つ欲ばると、ラダックの安定期に存在していた3つの経済基盤(農業、牧畜、交易)をベースとしてモデルの再興だ。特に、ラダック商人・シェンマの伝統の復活は、観光やインド軍をキーにすると可能なのではないだろうか。古く存在したモデルを、現代的な意味で再稼働させることは、地域自治や共同作業など、古くから存在したシステムも、再構築が可能ではないだろうか。


5 [出発  あとがき]

出発

チャンダグ家からの出発は唐突にやって来た。大麦の刈入れが終わった翌日、一日休養をとった私と息子は、上リキルに滞在している他のメンバー達を訪問することにした。谷間の川沿いに1時間ほど歩く、ちょっとしたハイキングだ。収穫完了の、ちょっとしたご褒美だ。

岩の間の砂地を歩いたり、岩を乗り越えたり、勢いよく流れる川水の横を進む。我々の突然の出現に、鳥の群れが岩を飛び越え、川岸の斜面を駆け上がって消えた。私と息子はどんな鳥だったか話をする。息子は鴨のような色だったという。私は恰好は雷鳥みたいだったという。「鴨は駆けないだろう?」と私は息子に聞く。息子は「鴨のような色をしていると言ったんだ」。「なるほど。そのとおりだ。でも、飛ばないで、走って逃げたんだ。そのことの方が色より大事じゃあないの?」。

リキル・ゴンパのすぐ横のレストランで久しぶりのりんごジュースを飲み、イタリアンオムレツという不思議な卵料理を食べ、一息入れて、友人を訪ねた。驚いたことに、その友人は腹痛が激しく、もう3日ろくに物も食べないで寝袋にくるまっていたというのだ。衰弱した彼を見て、即時に、彼はレーの病院で医者の診察を受ける必要があると思った。レーにいるISECのコーディネーターに連絡し、翌日彼をタクシーで移動させるよう要請した。それから、いろいろやり取りがあったのだが、結果としては、彼を運ぶタクシーで、彼だけでなく、もう一人のメンバーと私たち2人も一緒に、2日早くリキルを撤収することになった。

それからチャンダグ家に戻り、アバレに2日早くなるが明日ここを去ることになったことを報告した。アバレ、アマレの驚きはもちろんだったが、4週間、生活や農作業を共にしてきた私たちも寂しさは隠せず、アマレが私たちの好物のトゥッパ(tokpa)を作ってくれたが、湿った夕食になってしまった。カタコトのラダック語と英語、身振り手振りも交えての対話だったが、この4週間、概ね目的は達成し、家事から農作業まで、滞りなく手伝いができたと思う。  

image079.jpg

Figure 53:チャンダグ一家と息子            

 image080.jpg

Figure 54:出発の朝

翌日は、2時間遅れでタクシーがやってくるというハプニングはあったが、皆で写真をとったり、お別れのカタ(ラマ僧へのお布施や友人とのお別れに渡す簡素なスカーフ)やギフトを交換したりして、我々はタクシーに乗り込み、リキルをあとにした。タクシーまで送ってくれたアバレの目の涙が忘れられない。アマレはその時はどこかに隠れてしまっていて、姿は見えなかった。



旅の続き -あとがき1-
指のマメも新しい皮でおおわれ、手袋の上から刺さった幾つかのシーバックソーンの刺も硬いしこりになりました。息子は高校生活に戻り、私の日常もあのラダックでの生活から完全に切り離れました。しかし、旅が本来そうであるように、今回の旅は私の何かを変えました。今、旅以前とどこか違う自分がいるのを感じます。この小論は、明らかにその以前と違う自分の新しい視点からのものです。あのバス旅行から始まった私と息子の旅はイニシエーションの旅だったといえるでしょう。その結果辿り着いた地平が一体どんなところかはこれから各自が考えていくこととなります。

この小論では宗教と政治に関することは極力排除しました。というのも、そこに立ち入るにはもっと大きな視野と視点を持った舞台が必要であること、また、この小論の目的には助けにならないと考えたからです。しかし、ラダックについて語るとき、その宗教状況を抜きにすると、その文章に大きな穴が開いているのは確かです。そのような穴が開いている事を前提にこの小論を読んでいただきたいと思います。

原稿を早い時期から読んで頂き、色々な方からご意見をいただきました。頂いた感想やご意見は、様々なところに反映させています。ありがとうございました。

あとがき2
10月8日でした。ここまで書き上げた所で、我が家に緊急事態が発生しました。ラダックに一緒に行った息子が自動車事故に巻き込まれ、後頭部を損傷して意識不明のままSeattleの病院に収容されたのです。そして、その晩、頭骨の右半分を取り外して 脳内部の出血を取り除き、脳の圧力を減らすための脳外科の手術を受けました。それから2週間集中治療室で治療を続け、トラウマ治療室に移り1週間、やっと今日、脳と体のリハビリテーションのため、専門病院に入院して治療を続けるという運びになりました。

幸運なことに、今の段階では機能喪失といったような障害の徴候は現れていません。勿論検査は始まったばかりで、これから色々なことがわかって来るのだと思います。手術後のCT やMRIの映像からは、脳の随所に損傷があり、血液などが溜まっている場所もあちこちに見られました。それらが今後どのように修復されていくか、そして影響を受けた機能がどのように回復していくか、誰にも分かりません。医者たちが言うには、彼の若さが頼りだと、また、一旦損傷を受けた脳の回復とは旧に復することではなく、新しい人格を作ることだと。

まったく思いも寄らない体験でしたが、私にとっては息子の再確認という意味がありました。息子は今17歳で、高校の最終学年です。普通から言えば、来年の秋からどこかの大学に進学して、親元を離れることになるはずでした。ラダックへの旅もそういうことを意識しての最後かもしれない親子の旅と思っていたのですが、思いもかけない今回の事故で、それが延期されたのだと思いました。しかし、同時に、ある確率で彼はずっと我々のもとにいることになるかも知れないことを覚悟しました。幸い、私は今は時間的に何の拘束も受けない状態ですので、それを有効に使って、最大限息子のサポートに時間を使おうと考えました。言ってみれば、ラダックの旅の延長です。

あとがき3
さて、ラダックから帰ってきて、6ヶ月が経ちました。その内の4ヶ月は、息子の入院とリハビリテーションで、追いかけられるようにして時間が過ぎて行きました。息子の方は、様々な人びとの応援と献身、それと、幸運としか言いようがないリハビリテーションの結果、高校に復帰し、この6月には無事卒業が出来る見込みです。さて、そうやって、彼が自分の道を歩き始めているのですが、同じように、私も私の道を歩いていくことになります。さて、どこに向かおうか、、、

参考文献/資料



[1] Ahmed, Monisha 1999, “The Salt Trade: Rupshu’s Annual
Trek to Tso Kar
”, in Ladakh: Culture, History, and Development between
Himalaya and Karakoram
, eds by Martijin van Beek, Kristoffer Brix Bertelsen
and Poul Pederson, Recent Research on Ladakh 8, Aarhus University Press, pp.32-48.



[2] Dame, Juliane 2009, “Barley and potato chips: New
actors in the agricultural production in Ladakh
” in Ladakh Studies,
Vol. 24, pp15-23


[3] Damenge, Jonathan 2009 “In the Shadow of Zanskar: The
life of a Nepali Migrant
” in Ladakh Studies, Vol. 24, pp4-14.



[4] Darokhan, Mohammed Deen 1999, “The Development of
Ecological Agriculture in Ladakh and Strategies for Sustanable Development

in Ladakh: Culture, History, and Development between Himalaya and Karakoram,
eds by Martijin van Beek, Kristoffer Brix Bertelsen and Poul Pederson, Recent
Research on Ladakh 8, Aarhus University Press, pp.78-91.



[5] Dawa, Sonam 1999 “Economic Development of Ladakh:
Need for a New Startegy
” in Ladakh: Culture, History, and Development
between Himalaya and Karakoram
, eds by Martijin van Beek, Kristoffer Brix
Bertelsen and Poul Pederson, Recent Research on Ladakh 8, Aarhus University
Press, pp.369-378.



[6] Dott, Emmanual 1999 “世界の多様性 –家族構造と近代性”,
荻野文隆訳, 2008, 藤原書店



[7] Dunham, Mikel 2004 “Buddha’s Worriers”, Penguin
Books,  NYC, USA



[8] Hedin, Sven 1909 “Trans-Himalaya”, vol.1, The Macmillan
Company, NY, USA



[9] Herdick, Reinhard 1999, “Yangthang in West Ladakh: An
Analysis of the Ecological and Socio-Cultural Structure of a Village and Its
Relation to Its Monastery
” in Ladakh: Culture, History, and Development
between Himalaya and Karakoram
, eds by Martijin van Beek, Kristoffer Brix
Bertelsen and Poul Pederson, Recent Research on Ladakh 8, Aarhus University
Press, pp.193-221.



[10] Loram, Charlie 2004 “Trekking in Ladakh”, Trailblazer
Publications, Surrey, UK



[11] Margolis, Eric 1999 “War at the top of the world”, Key
Porter Books limited, Canada



[12] Norberg-Hodge, Helena 2009  “Ancient Futures” with a new Afterword,
Sierra Club Books, San Francisco



[13] Pirie, Fernande 2009 “Peace and Conflict in Ladakh: the
construction of a fragile web of order”, Brill Academic Press, Leiden, The
Netherlands



[14] Rizvi, Janet 1996 “Ladakh: Crossroads of High Asia”,
Oxford University Press, Oxford, UK



[15] Rizvi, Janet 1999 “Trans-Himalayan Caravans”,   Oxford University Press, Oxford, UK



[16] 佐藤, 1981 “マンダラ探検 – チベット仏教踏査-“,  人文書院, 1988 中公文庫



[17] 宇都宮, 貞子 1970 “草木ノート”, 読売新聞社



ISEC Workshop (Aug. 30, 2011)  Speakers



·        
Mr. Tashi Morup (founder of SEQMOL) on The
future of Agriculture in Ladakh



·        
Mrs. Dolma Tesring (ex president of WAL) on
Social Changes in Ladakh



·        
Mr. Stanzin Namgyal (owner of a travel agency
and an restaurant in Leh)  on The future
of Tourism in Ladakh



·        
Mr. Skarma Lotus (staff of SECMOL) on Education
in Ladakh




Wikipedia  ジャンム・カシミール地図 http://en.wikipedia.org/wiki/Jammu_%26_Kashmir 


- | 次の10件

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。